グレッグ・イーガン『祈りの海』
・「私が私であること」への限りなき問い
こんにちは。
年初めに『2001年宇宙の旅』を読んでからというもの,ややSF熱を引きずっております。てなわけで今SF名作巡り中でして、そんな中『祈りの海』を読み終わりました。
- 作者: グレッグイーガン,Greg Egan,山岸真
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2000/12/01
- メディア: 文庫
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貸金庫
毎日別の人間の体に意識を飛ばされて生きる男の話。もとはと言えばこの話のあらすじをざっと見て「これこそ俺が求めるSFじゃー!」と思ったのがこの短編集を読むきっかけ。何故なら「俺は毎日記憶を消されながら日々違う人の体で目覚めているのではないか?」という何とも中二な想像を自分もよくしていたから。読んだ結論からいうと面白かったんだけどちょっと不完全燃焼なところがあったかなという感じなんだけど,それでも考える部分はやっぱり多い。
まず,これを読んでちょっと思ったのが,「言語=人格」の感覚。
「けれども,ひとつのことは確実にいえると思う。年齢と土地の限定があったからこそ,現在のわたしは正気と呼べる状態でいられるのだ。…(中略)…宿主が世界中に散らばっていて,毎日異なる言語や文化を相手に”成長”していたなら,そもそも私が存在したかはどうかは疑わしい――」
人間の意識と言語は密接にリンクされてるとされてます。人間は二語以上の言葉を使って会話する時にはもう既に個別言語の統語的構造を理解していると説明したのはチョムスキーの生成文法理論ですが,人間は生まれながらにして文法を持っているというわけです。で,そこで得られた言語は人間の先天的能力をもって使われると。
ここで考えてみたいのが幼少期の頃から複数の言語に親しんできた子供のケースです。一つの言語内で育ってきた子供に比べてバイリンガルの児童はどうもアイデンティティ不全に陥るケースが多いと聞きます。*1もちろん成長の際に依ってたつべき文化がないことが重大な原因ではありますが,それに加えて,言語を話す際に人格ごとスイッチしてしまう感覚があるのが一因にあるのではないかなと,かなり少ない私の国際間の経験からは思います。気が付いたら外国の人に対して,わずかに何とか慣れ親しんだ文法を使って何となく会話をしていた,という感覚が「私は今何をしていたのか?」という思いにつながった経験がありますので。
また,この物語に関してもう一つふと感じたことがあります。それは,「もしかしたら,幼少期から異なる人間の間を行き来しながら成長したのならば,案外それなりに慣れてしまうものなのではないか?」ということです。
「わたしは両親のことを,基本的に自分の同類と考えていたと思う。かれらの容姿などの変化は自分のよりも極端だが,かれらはほかの点でも自分より大きいのだから,それで筋が通っているのだと。」
この文章を読んだとき,この主人公は普通の人間よりも多くの経験を積んでいる訳だから,それすなわち神とか無に近づいてこねぇそれ?とふと思いました。それだったら個別の人格という夢に固執してアイデンティティ不全に陥るよりも,全体的な視点を持った常に無気力な人格像のが想像しやすいです。
キューティ
子供を欲しがらない恋人に見切りをつけて,三年きりの命の子供を自ら妊娠して産んで育てようとする男の話。
子供を産み育てるということが人生の最終的な解決だ、というテーゼはよく見るものであります。*2ラブプラス等に手を染めるわけではないものの,孤男の癖に既婚男性板に入り浸って「あー家庭ってこんなんなのかな」とまったりするのがここ2年近く止められてない自分の胸にも迫ってくる設定でした。おーこわ。
ぼくになることを
全員がある程度の年齢になると脳を全摘出して仮想の脳に付け替える社会の話。これを読んで思い出すのが攻殻機動隊という安いオタですよええ。
繭
生命倫理・人種差別等を盛り込んだサスペンス。こういうののほうが好きかも。
誘拐
自分の妻を誘拐したという映像を受け取った男。しかし妻は誘拐などされてはいなかった。その後真実を知った男がとる行動とは!?という話。
情報の集積による人格の再構成,というわりかし今でも問題になっていることがテーマ。この物語の世界ではすでに,死んだ人を仮人格として現前するためのテクノロジーが実用化されており,さらに主人公の母親がその技術を適用されていて,主人公がその母に日常的に「人間性」を感じているというのがポイント。例えばツイッターの自動投稿システムであるbotに対してヘンな人間っぽさを感じることもあるように, input/outputするのみの機械にそれ以上の感情を持ってしまうことは多々あることなので,非合理な結末も説得力がある。
放浪者の軌跡
テレパシーするほどではないにしろ,互いの価値観や思想が無言で人々の間で行き来するようになった未来。そのアトラクタと呼ばれる力は,思想の種類をもとに人々をある一定の地に縛り付けるようになった。そのアトラクタの間を縫って逃げようとする一組の男女を中心にした物語。
ここまでサイコチックな伝達能力が発達してなくても,今言われている共同体主義ってこんな感じじゃんね。地域のためにとかジモト主義とか見えない不思議な力としか言えないわけだしさ。そこで「無色なままのボクでいたい」とか言われても,その考えも何だか偏ってないか?とも思います。例えば今私が(エスペラント語でなく)日本語を操ってものを書いているように,人ってその共同体の影響を否が応にも受けざるを得ない存在なわけで。そんなことを普段から思っているワタクシにとってこれは結構示唆的だったし面白かった。
イエユーカ
先進国では最先端の医療科学によって付けているだけでその指輪の装着者の健康状態がわかる指輪が開発され普及している一方,アフリカではイエユーカと呼ばれる感染病が蔓延している。そんな状況の中で若い医師がアフリカに行く。
途中で指輪のソフトウェアを巡る陰謀論になってからものすごい結末に着地する。『未来を生きる君たちへ』を観て以来割とこういう先進国と途上国の二つの世界を描いた作品も好きになってきました。そんでもってこれはとても良い。意外性と残酷性が奇妙に合っていて不思議な魅力がありました。
以上それぞれの感想でした。どの短編も簡単には理解させてくれない強度を持っていて読書が大変でしたが,物語における科学技術の導入の必然性を感じさせてくれてとてもよかったと思います。
しかし,この短編集で最も重要とされる表題作の良さがイマイチわからず感想書くの逃げてる時点でSFの読み手失格かもしれませんね…
"I need to be myself,/I can't be no one else/I'm feeling supersonic/give me gin and tonic"うむ。
*1:とりあえずソース→http://bit.ly/zVK0uG
*2:最近で言うと『八日目の蝉』とかね