宮崎駿監督『風立ちぬ』

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視しているなにものかから、今にも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼はひろげられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。彼は顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきにつきつけてくるのだ。多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗力的に運んでいく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。
ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(1940)野村修(訳)1969 『暴力批判論 ヴァルター・ベンヤミン著作集1』晶文社


宮崎駿監督『風立ちぬ』観てまいりました。スタジオジブリの前作『コクリコ坂から』から2年、宮崎駿監督作品の『ポニョ』からは5年ぶりとあって、久しぶりに劇場にてジブリの画に触れる機会となりました。ジブリ作品に対する期待度は年々低くなってきていたのですが、今作はその先入観をいい意味で裏切る素晴らしい作品で、何とも考察し甲斐のあるものでした。

事前情報にあるとおり今作は、昭和の戦時下に生きた堀越二郎及び堀辰雄の2者の半生を反映した物語となっております。主人公の堀越二郎は幼い頃から飛行機を制作することを夢見ており、成長して技師として三菱に入社してからも戦闘機の制作に携わることになる。そんな折、関東大震災に被災したとき手助けをした菜穂子と偶然再会し、2人はあっという間に恋に落ち結婚するが、菜穂子の体は当時不治の病とされていた結核に犯されていた、というのが大まかな筋書き。実際にゼロ戦の制作を行った堀越二郎の物語をベースとしつつ、菜穂子とのロマンスの部分は堀辰雄サナトリウム文学の要素を盛り込んだものとなっています。

映画館で繰り返し流されていた予告編を観たとき、私はこの作品は純粋なロマンティシズムに傾倒したものとなるのではないかと思いました。というよりあの予告編を観たほとんどの人がそう思ったはずです。昭和初期の風景・飛行機の制作へ情熱を向ける人間の姿・病弱ながらも美しい女性との儚い恋、そしてそのバックで流れる荒井由美ひこうき雲』…時代を生きた人の感情を生き生きと描けばそれは立派な作品になるし、ノスタルジーを多量に含んだ物語をジブリが創ることは容易だったはずです。あのたった4分の予告編は、あれだけで優れたヒューマンドラマとして完結した世界を構築していました。

本作の序盤を観て私の心の中に湧き上がってきた感想は、「何だか宮崎吾郎が創った映画みたいだなー」ということ。表面だけの優等生的な受け答えしかしない主人公、飛行を描く割には観客の心を飛翔させない陳腐な夢のイメージ、都合の良すぎる妹のキャラ造形etc…全盛期にみられた架空の世界を生き生きと描く宮崎駿監督の饒舌さが全くみられず、ただただ他者である我々の観客の視線を拒む私小説的な描写ばかり。『ポニョ』に続いて今回もちょっとダメかな、と思った瞬間でした。

その感想が反転したのが中盤以降。草原でデッサンをしていた菜穂子の帽子が風で飛ばされて二郎がキャッチし、それが2人の再会につながるところや、試作した戦闘機がテストを成功したと思いきや、結局失敗しておりそれが二郎の心に残って燻りとなっている場面を観る内にいつの間にか惹きこまれている自分がいました。

本作のテーマは「風」。それは、主人公の意志をサポートしたり、二郎と菜穂子の仲を前進させるものであったり、あるいはハッピーエンドへと向かって人物を成功に導くようなロマンティックかつ単純なものではありません。二郎の精神的師匠であるカプローニが「風は吹いているか」と問いかけ、それに二郎が応えるとき、時代の情勢は彼らにとって順風満帆というには過酷過ぎるものでした。二郎が関東大震災に襲われ、また欧米列強との技術力の壁を思い知るとき、夢の中でカプローニは決まって上述のセリフを言います。その言葉が二郎を応援するならまだしも、物語は簡単に好転していきません。何故なら、今作で「風」は、人々を翻弄していく運命・時代の情勢を象徴しているからです。二郎の人生は飛行機の飛行が成功するかどうかによって左右されており、誠実過ぎるほど誠実に飛行機作りに邁進する二郎は風によってその後の人生を決定づけられます。同様に主役2人の恋も、帽子が飛ぶことによって始まります。そして紙飛行機が不安定な飛行の果てに相手のもとに辿り着くシーンに顕著なように迷走を経て2人も結びつき、悲劇的とも前向きとも言えないようなラストに向かって突き進んでいきます。*1もし戦争中の社会で主人公が絶えず飛行機制作に突き動かされずに済んだら、あるいはもう少し後の世界で結核がもはや不治の病でなければ、2人はもっと普通の生活を遅れたに違いありません。しかし当時の「風」はそんな夢を許さないほど過酷でした。

この、夢に生き、夢に殉じた二郎の姿はそのまま宮崎駿監督に通ずるところがあります。飛行機を創り続けた二郎と、アニメ制作に人生を賭けた宮崎監督。二郎の創った飛行機は戦争の道具となり、宮崎監督の創った作品は監督が嫌う資本主義の道具となった。そのこと自身について彼ら自身が矛盾を抱えた存在であるという他無く、しかしながらその部分にどうしようもないほどの人間的魅力を湛えています。また、今回たまたま時勢も相俟って、ジブリがこんな行動に出たことが話題となりました→小冊子『熱風』 - スタジオジブリ出版部。その結果は周知のとおり。宮崎監督自身リベラルでありながら、今回その思想が勝利することはなく、しかしながら自身の作品は日本国民のほぼマジョリティと言っていいほどに人気を博している…そんなところをみると、監督自身も未だに時代の風に吹かれていると考えずにはいられません。

引用の文章にある「天使」は、勝者によって創られる物語と、その裏で破棄される無数の敗者の物語という両極端の存在によって揺れ動く「歴史」のイメージであると言われています。大きな物語に回収されないような、救って拾い上げたい過去は増える一方なのに、「今」は容赦なく今自体を生きることを要請する。そんな人々の姿を隠喩したものです。”ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風”であるとすれば、進歩そのものが諸手を挙げて称賛されるべきものだとは言えないでしょう。ただそれでも前進せずにはいられない我々の存在の過小さを痛感させる例示だと思います。

風は常に吹き続けている。そのことを認識したとき、初めて私達は歴史の上に立ったと言えるのかもしれない。先人の必死の思いの行動ですら善に帰結するとは言い難く、後からその行動の是非を判断することも簡単ではない。二郎が飛行機を創り続けたことや、重症の菜穂子と一緒に暮らすことを決めたことも恐らく完全な正解ではない。しかしそれでも、二郎は菜穂子との代え難い時間を得ることができたし、その記憶を胸に生きていけるなら羨ましいほどに素晴らしいと思う。何かを失ってでも何かを求め続けなければならない。生きるとは多分そういうことなのでしょう。

*1:この辺は、希望的展開なら飛行機が右→左、逆に悲観的ならば左→右と動いているのが映画技法の定石どおりで驚きました。参考:http://d.hatena.ne.jp/baphoo/20120109/p1