ジャック・オーディアール監督『君と歩く世界』

・あなたの人生に死を近づかせないために

久々の映画感想の更新。もう既に劇場公開も終盤にさしかかってしまっていますが、現在ある人間ドラマの良作がひっそりと(でも全国ロードショーで)公開中です。

幼い息子を連れて親類の家に住むこととなったアリ(マティアス・スーナールツ)。素行の悪い彼はクラブの用心棒を生活の糧としていたが、ある日クラブで男を挑発するかのような服装をしているステファニー(マリオン・コティヤール)と出会う。昼は水族館でのシャチの調教師をしている彼女は、ある日ショー本番での事故で両足を失ってしまう。失意のどん底にあったステファニーだったが、そんな彼女にアリは粗暴ながらも優しさを示し、二人の人生が交錯し始める…というお話。

テーマはずばり「生の充足」。あらゆるところで生をモチーフにした演出がなされ、それが人生における落とし穴にはまってしまいもがき苦しんでいる人物たちに影響を与え行動を起こさせる物語でした。

自分の天職とも言うべきシャチの調教師の職を失い、また両脚を失うことで自信を持っていた自分の外見も損なってしまったと感じ生きる気力を失くすステファニー。そんな彼女がアリに連れられて海に向かうことで事態は好転する。最初は億劫がっていたステファニーが、「泳ぎたい」と口にするようになり、着ている服を脱いで光り輝く海へとアリの助けを用いつつ着水する。脚が無くとも全身を使って水面を泳ぐステファニーの姿には、それまでのグッタリした体にはなかった生命力が漲っていました。一度は精神的に「死んだ」ステファニーが、生への渇望を得た一瞬が示され、観客である我々にも伝わってきます。

その後アリとの面会を重ねるごとに、彼を深く信頼するようになるステファニー。そして彼女はついに、アリに性生活について聞かれた際「欲望はあるわ」と答えるまでになります。この時のステファニーは、長らく閉ざしていた自らの生への渇望が湧き上がっているのを自分でも認識し、日常生活へ復帰する最終ステップを踏み出したい状態。セックスを通じて元の自分を取り戻したいと欲望したいと考えていたのではないでしょうか。そしてその欲望はアリによって満たされることになる。ステファニーは脚を失う前の自分を取り戻すことに成功するのです。

また、非合法な野外ボクシングでアリが戦っているのを観たマリオンは、明らかにその粗暴さに惹かれている。格闘技なんて健康的な身体を賭して削り合っているものである以上、総じて生きる上で無駄なものと捉えてもよいでしょう。特にそれがテレビに映るようなショウとは違い倫理的にも妥当性を持たないものであるならばなおさらです。しかし常に流血を伴うほどの非合法ボクシングを通じてアリは自分の存在を確かなものとしているし、それを見たステファニーにも精神的にプラスな感染が明らかに起こっています。その後彼女が非合法ボクシングの世界に運営側として深く関わっていくのも、彼氏の悪い面に影響を受ける女性のようで妙なリアリティを感じました。

海で泳ぐこと、セックスにふけることそして格闘技に身を投じること。それらは全て「生の浪費」というべきものです。結論を言ってしまえばそんなことなんかしなくても生きていけるし、それをしない/できない人間には不可解な行為ですらある。それでもある一定の人たちには必要な行為であり、それ抜きだと途端に人生の意味を喪失してしまう類のもの。この映画に準じて言えば、上の3つは2人にとって生きていくために必要な要素であるし、それを通じて自らの存在意義・生の実感を得ていることが分かります。

上記の海でのシーンに関しては、最近水泳を始めたので感じるところがありました。カナヅチを克服する上で最も重要なのは溺れないように意識を訓練すること。それはすなわち、最も円滑に泳ぐことができる水の表面部に留まる意識を持つことです。慣れない水中でなんとか進もうともがけばもがくほど抵抗が強くなり、泳ぐには無駄に力を使わせてしまう。その結果深い部分に潜り込んでしまい溺れてしまう。最も効率的な体の動かし方は、水面上に留まることなので、イメージだけでも掴んでおかないとすぐ沈んでしまいます。表面部にいればうまく行くと自信を持つこと。そして水中での体の動かし方を知ることが、水中での過ごし方を体得することにつながります。この映画で「深み」にはまっているステファニーやアリの姿は、そのまま水中でバランスを失って溺れる姿に近いと感じました。

英語のタイトルを直訳すると「サビと骨」。最後の主人公のセリフで「骨」の意味が説明されています。厚い氷の張った水面下に落ちてしまった息子を救出しようとして、自らの拳で氷を殴っているうちに格闘家の要ともいうべき指の骨を骨折してしまうアリ。そして病院で息子を助けることができない無力さに苛まれステファニーに助けを求めますが、その時彼の心も折れていたのだと思います。その後息子とステファニーと共に記者会見へ向かう時のナレーションで「骨は折れると、太くなって再生する」とアリは言います。困難な人生において幾度となく衝突せざるを得ない挫折。そんな人の生命に降りかかってくるサビのようなものはどうしようもなく存在している。ぼやっとしていると知らぬ内に生活を蝕んでいくサビに対して、私達は骨を削るかのような態度で臨むしかないのかもしれない。その結果折れてしまってももっと強くなって復活するものだと自らの体内作用を信じて。その作用を否定することはそのまま生を否定するようなものだ。我々に与えられた生命力は、預かり知らぬところで命を支えているのだ。


「生」は浪費されて充足されるべきもの。さもないとすぐそこにある死に足を絡めとられてしまう。人生の深みに不必要にはまることに意味はないのではないでしょうか。うまく行かないことがあって自らに不信感を持ってしまっても、そう焦ることはないのではないでしょうか。人生を生き抜くためのプログラムは、既に私達の体内に骨として組み込まれているのだから。