河合勇人監督『鈴木先生』

・敗戦兵より愛をこめて
鈴木先生』土浦で観てまいりました!原作の漫画も学生時代に読んでいましたが、ドラマ版を観てさらに好きになってこのシリーズ、まさかの映画化ということで期待して観にいきました。オープニングで"Lesson 11"とあるように、ドラマ版の続きというイメージで制作されたのでしょう。ドラマ版のファンへの感謝の意を込めたプレゼントであるかのような印象を受ける作品でした。

映画 鈴木先生 豪華版 [DVD]

映画 鈴木先生 豪華版 [DVD]

緋桜山中学校で国語教師を勤めている鈴木先生長谷川博己)は、過去受け持ったクラスでの失敗をもとに生徒たちに既存の教育慣習に囚われない独自の教育方針をもって日々奮闘している。担当する2年A組の生徒指導は成功しつつあるのを実感していたが、目前に迫った生徒会選挙でまた一波乱が起きようとしていた…というお話。

正直言って映画としての出来は65点位。ドラマのセットそのままで撮影してしまったかのようなカットが多すぎて映像に間延びした印象を受けてしまったし、最後に至っては、あのジャンプがどうこうというよりもあの屋上のシーン自体が蛇足だったように思う。意味があるとすれば、小川の台詞「私の体には、私のもの以上の責任があるんです」や「ここにいる皆は、恐ろしくなって声を上げるような人間ではない(だっけ?)」を引き出すためだと考えられるけれども、そのすぐ後に皆騒ぐしね…。教室内での鈴木先生の犯人への説得が、今回の映画、ひいては全体のテーマを象徴するかのような名スピーチだっただけに残念なところでした。でも、演出的な欠点はあれども、この映画で教育に対してかなり希望を持つことができましたよ。以下、書きづらいのでちょっと文体を変えてその理由をば。



私の地元は周辺でも特に荒れているところだった。特に中学校の思い出はロクなものがない。なまじっか勉強だけはできるがり勉タイプだっただけに委員を務めさせられたが、それでも教室は殆ど学級崩壊に近い感じだったし、不良グループや体育会系の先輩からは体でも言葉でも暴力を受けた。さらに最悪だったのが教師はクラスをまとめきれないことを私の責任にしていたことだ。今にして思えばなんで中学生のころから中間管理職みたいなことやってんだという感じだが、社会のいやらしさを否というほど知ったという点ではいい教育だったのだろう。

うまいこと高校受験に成功し、地域の進学校に進んだ私は時折「ここは天国か」と感じていた。偏差値55位のところだったけれども、それでも話の通じないムチャクチャな不良はいなかったし、何もしなくても普通に過ごせるということがどれだけ私の心を軽くしたことか。そして進路を決める中でいつしかスクールカウンセラーを志すようになっていた。かつて中学校でオトナとコドモの間で心を軋轢させられた自分にとって、また自分と同じような目に遭っているような後輩に、少しでも救いを与えられたならと思っていた。本気で。

しかしその意志も、予備校時代の講師の話でスクールカウンセラーなるものの実態を知って挫折してしまった。その後大学ではネットの波にどっぷりと浸かりつつ、社会の中で人々を翻弄する道徳なるものの正体を突き詰めてやろうと倫理学を専攻したが、結局その実感を掴むことはできなかった。そうこうしているうちにうっかり社会人となってしまったのが今の私の現状だ。

正義はタダではないし、そのままの私を社会は生かしてはくれない。これは四半世紀ほど生きてきた中で私が得た実感だ。そしてこの映画の中で生徒を襲撃することを決意する元卒業生も、同じような問題にぶち当たっていたのだろう。就活に失敗したことがきっかけで引きこもり、家族や社会のつまはじき者となってしまう彼は、学校内では元優等生だった。元不良だった同級生が会社社長や玉の輿に乗っていることに絶望した彼は、優等生に対して絶望を与えることでその解決を目論見る。手段はさて置いて、その主張ははっきり言って正しい。いじめで他人の人生を狂わせた元不良がいいパパになって幸せな家庭を持つことがありえる位には因果応報は不完全な制度のままだし、優等生として社会規範を守ることは生きる術とはならず人は狩人のように「生」を社会の中で奪取しなくてはならないのだ。ややステレオタイプなきらいこそあれ、彼の行動には道理があり一応のリアリティを感じさせる。

この作品の中には、過去の自分が生徒としてたくさんいるような気がした。自分が信頼していた生徒が選挙に当選せず有名無実な候補者が当選してしまったことに怒りを覚える生徒、生徒会選挙に出馬しようか迷うものの鈴木先生によって半ば強引に前に出る女の子、それに上述の元卒業生だって間違いなく自分に身に覚えがある。中でも授業中自分の話を聞こうとせず仲間うちの会話ばかりするグループに対して憤慨する委員長タイプの武地の姿は同じような経験を多数してきた身には照れくさいものだった。

しかし、間違いなくこいつには自分の要素がないと言える生徒がいた。小川蘇美だ。彼女は優等生でありながら鈴木式教育メソッドを体現する人間であり、もともと周りの生徒とは違う人物だったのが、鈴木先生からの教育で自分の弱みを克服し、自分を襲ってくる犯人に対しても理論武装で負けないキャラとなっている。時に物語では、人が一つも共感できないような振る舞いをすることでリアリティのある物語を回す、ある種「神」と呼ぶにふさわしい役目を担うキャラクターが存在するが、今回の小川蘇美も一見優等生でもろく見えながら、強い信念に基づく振る舞いをしておりそれは「自分の外の人間」として私の目に映った。

私はこれまでにそんな社会的に神がかったポジションを得ることはなかったし、私の学生時代にはこんな生徒はまず存在しなかった。いや、存在しえなかった。人生で初めて社会の硬直性を教えられる学校という場において、誰もが多かれ少なかれ挫折し、結果「なぁなぁ」に生きていくことを学ぶ。「社会を学ぶ場」においては、その組織という性質上思考を停止することこそ求められど、自分で考える能力の涵養は二の次。だからこそ、正直言って彼女を観ていると複雑な気持ちにさせられてしまう。何故なら彼女は「自分で考える」鈴木式メソッドを自らのものとし、自分の考えを主張することに成功しているが、それは今でも自分にできないことだから。映画を観ていて、今に見てろあんなのうまくいきやしないといういかにも意地の悪い大人な考え、あるいは転校生の足を転がしてやろうというような気持ちが顔をのぞかせた部分があった。しかし、多分彼女はこれからの将来の人生で少なからず失敗すると思うが、それすらも糧にしてさらに前に進んでしまいそうなタフさの片鱗を見せていた。自分が今にも殺されるというのに、心配する周りの人間に「壊れることを自分に許さないで」と言える中学生が何人いるだろう。でも、それが私をさらにもやもやさせる。

今、私の下の世代についてちょっと感じるのは、現代のソーシャル感を備えたことによる一種の欠如と、それをものともせず社会に出ようとする層の存在だ。私の世代ではいつ鳴るとも分からない携帯電話を持ち続けることに耐え切れずジュースの入ったコップの中にダイブさせてしまった人の話があったし、それを「あー分かるわー」と共感していたものだ。しかし今や若者にとって携帯電話は人間の感覚器官のようなものとなり、しまいにはもっと精神コストの高いSNSに一日の多くの時間を割くことに何の抵抗もない。それは古い人間からすれば感覚の欠如だが、しかし新たな社会に対応した世代の台頭とも言える。そして若い世代は、この炎上社会においても平気で自分の考えを投稿している。こちらがこそこそ隠れて楽しくいきようと必死な一方で、自分の役割を進んで「引き受ける」人間も出ている。これは「演じること」について、それは1つの処世術なのだと鈴木先生が教える場面があるが、そのメッセージとも通じている人間性の部分だ。

だから、そんな人たちには私なんか飛び越えて行ってほしいと思う。組織論でいえば、日本は少なくとも江戸時代から今に至るまで同じような問題に悩まされ続けている。それは組織の硬直性だ。システムは私達を疲弊させ、私達から大切なものを奪い無力にしようとする。しかし人々が対極に置く「人間性」なるものの正体についても誰一人として答えを持ってはいない。もし意見を言おうものなら、それについての反論が人の数だけあるといっても過言ではない。自分の生きる正当性を求めて、人は喜劇のような悲劇を繰り返してばかりだ。でももし彼女のような存在が今の社会に実在しているなら、それは1つの奇跡だし、そのまま成長してくれれば本当に社会を本当の意味で変えてくれるのではないか。

今私が悩んでいるのが、仕事を通して弱い者いじめの運動を拡大再生産する営みに直接的・間接的に手を染める可能性があることだ。それだけはまっぴらごめんなので、もし立場上そうせざるを得ない部署に就く前にできれば仕事を辞めたい。そうしなかったら、人が色んなものを負わされて潰されることに立ち向かいたいと思ってスクールカウンセラーを志していたかつての自分が許さないだろう。原因が自分以外のところにありながら、間の存在として責任を押し付けられる存在を生み出してしまうこと自体許されないことだし、そんな藁人形を作ることでしか成り立たない社会にいたくはない。できることならそんな社会の俗悪性には客観的でいたいと思っている。

巨大な制度に対して正面から反対して勝つ自信はない。なので、もはや私は他人に対して思想的に勝てる人間であるとは思わないし、これからの人生で権力を得ることで自らの生の充足を得ようとは思わない。どうしようもない社会構造に対して精神的に隠居してやろうと決め込んでいる人間だ。何もしないことで何の悪も生み出さないならばそれに越したことはない。許されるならば遠い南の島でボケて過ごしたいが、そうならないうちは息を潜めて社会に生きていようと思う。でも、この作品は「引き受ける」ことに肯定的な表現をしたことで今後の希望を見事に示している。もしそういう可能性が本当にあるんだったら、それはとても喜ばしいことだ。

キャスリン・ビグロー監督『ゼロ・ダーク・サーティ』

・歴史は動く、されど進まず

ゼロ・ダーク・サーティ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

ゼロ・ダーク・サーティ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

ゼロ・ダーク・サーティ』観てまいりました!前から観たい観たいと言っていた映画だっただけにいざ公開となった喜びもひとしおでしたが、その期待に底の知れない重厚さで応えてくれる素晴らしい作品でした!残業後の異常なテンションで観た甲斐がありました。

2001年9月1日に起こったアメリカ同時多発テロ事件。その首謀者であるオサマ・ビン・ラディンを追い続けるCIA(アメリカ中央情報局)だったが、その足取りを掴むことは困難を極めていた。そんな中パキスタンアメリカ大使館に派遣されてきたCIAの情報分析官マヤ(ジェシカ・チャンスティン)。優秀な彼女は捕虜の尋問やその膨大な映像からアブ・アフメドというビンラディンについて有力な手掛かりとなりそうな人物の情報を掴む。しかし雲を掴むような捜索の中で、チームのリーダーであった男性がアメリカに帰国し、さらには別のルートで捜査を行っていた同僚がアルカイダの罠に嵌まり爆殺されてしまうなどマヤに逆風が吹く。極限状態のマヤに追い打ちをかけるように「アブ・アフメド」はすでに死んでいたという情報が。それでもめげずに現地でビンラディンを追跡する彼女は再度「アブ・アフメド」に辿りつき、さらに「重要な人物が住んでいる」と推測される豪邸をマークすることに成功。そして2011年5月2日、ビンラディン捕獲・殺害ミッションが決行される…!

印象的だったのは、ビンラディンが潜伏していると思われる家を特定した後、なかなか次の行動に移れないでいる上司に対して、マヤが彼のデスクを区切るガラスのパーテーションに「21」や「100」とCIAが地団駄を踏んでいる日数をマジックで書いて無言の抗議をするところ。このシーン、マヤの短気な性格を表しているのですが、一見したときはバランスが悪いと感じました。通常なら突き上げを行っているマヤ側の焦りや描写もないと、その人物に感情移入できない。『アルゴ』では同じように上司に反対された作戦を実施することに苦悩する主人公の姿がたっぷり描かれているのとは対照的です。

実はこの映画を観ている最中、何だか『ディア・ハンター』っぽいなーと幾度となく思いました。『ゼロ・ダーク・サーティ』では全体的に事実を積み上げていく手法がとられており、1年過ぎ事件があってまた1年過ぎて今度はこんな捕虜が捕まって…といったように実際の事実に則して全体が進んでいき、人物の感情表現は二の次とばかりに物語が進行するのが印象的です。それは『ディア・ハンター』も同様で、ある街の青年たちのベトナム戦争への出征前のシーケンスでは戦地に赴く前の集団結婚式の様子が淡々と写し出され、またベトナム戦争に行った親友たちがある戦場でばったり会って再会を喜んでいたと思ったら次には捕虜になっているという、個人の感情をあえて無視するかのような編集が『ディア・ハンター』では全体的になされていました。最初観た時なんだこの唐突な映画、と思ったことを覚えています。

つまり、『ディア・ハンター』があくまで歴史を主眼として映し出していたのと同様、『ゼロ・ダーク・サーティ』も国際社会の波乱の動きにフォーカスした作品であり、対応して歴史に翻弄される人間の姿を俯瞰的に表す作品であったのではないでしょうか。ここではただ粛々と事実が進行していく様子があり、それに対して人間の感情が追いついていない状態が示される。その人間にはただ拷問を行っただの親友を失っただのマシンガンで襲撃され九死に一生を得たなど最終的にビンラディンを暗殺しただのの結果のみが付いて回り、その呪いに対する身の処し方に惑うしかありません。社会変化が急激過ぎて、それに必死に付いていこうとする内に自分が何を思っているのか分からなくなってしまう、また起こるべき感情が起こらない自分に苛立つようになってしまっても不思議ではありません。戦争の現場では、戦争に関わった人間を救済する「物語」などないということを痛感させてくれます。

今作品は元々、9.11後もビンラディンを捕捉することができないCIAの受難の10年を描く予定だったとのこと。つまり今作品の当初のイメージは、連続殺人犯への何十年にも渡る執念の捜査を描いた『ゾディアック』のようなものを想定するといいかもしれません。そしてこのモチーフをとおしてキャスリン・ビグローが表現したかったことは、ビンラディン殺害という事実が積み重なった後も実質的には変化していません。何故なら激動の歴史の下で翻弄される個人の哀しみを丹念に描く上で妨げとはならなかったからです。ビンラディン暗殺という事実は軍事作戦の成功ではあったものの、彼が創り出したカオスの終焉を意味するものでは全くありませんでした。

最後の戦闘機のシーンでマヤは、これからどこに行くのかとパイロットに問いかけられる。しかしその質問に答えることはなかった。このことはこれまでビンラディン追跡という目標を失って迷うマヤ自身の行く末をも示していたと思う。混迷を極める現代において、崇高な意志を持ち身を粉にして使命を全うしても、明確な答えは示してはもらえない。それは例えビンラディン暗殺の指揮を執った英雄だとしても同じことなのだ。



そうそう、イスラム兵を拷問する時にメタルを流すって本当だったんですね。動画はタイムリーなこいつを。

アン・リー監督『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(ネタバレ)

たまたまネットで出会って以来、ずっと心に残り続けているとても好きな話がある。

大戦中にドイツ軍の捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内の喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を作った話を思い出した。

・・・そのグループが収容されてた雑居房バラック、その隅に置かれた一つの席は、13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ)

彼らグループの中で、喧嘩や口論など紳士らしからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。
着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自がささやかな手作りのプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。
・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、監視のドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているものと勘違いして、彼らの雑居房を天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。
だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂や自殺したりする中、そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。

泣ける2ch:捕虜を勇気付けた架空の少女

要するに、信じる者は救われるという話だ。信仰の対象となったのが少女ということで好事家達の目に晒されることになったと思うのだけれど、その俗っぽさが好感が持てるし、色んな話に広がりうる可能性を感じるから好きだ。

その話自体の出自がはっきりしないという点も含めて。

Life Of Pi

Life Of Pi

ライフ・オブ・パイ』は一言で言ってしまえば信仰の物語だ。主人公のパイは幼少期をヒンドゥー教キリスト教イスラム教に触れ全てに親近感を持つ少年として過ごす。自分の病気を治してくれるよう毎日神に祈ったが結局自分を救ってくれたのは西洋医学だった経験から科学主義を信望する父と、植物学者でありながら自らが勘当された家のことをヒンドゥー教への信仰を通じて思うことで精神を保つ母。その二人の下で育ったパイは、宗教的に多感な青年期を過ごすことになる。教会でキリスト教に出会い、また地面に頭を付けることで神を感じるとしてヒンドゥー教に心酔する。そんなパイに人生を揺るがす事件が起こる。一家がそれまで所有していた動物園を閉鎖し、動物を連れてカナダに移住することになるのだ。恋人にも恵まれたパイだったが彼女に別れを告げ、家族とともに貨物船に乗り込むことになる。しかしその渡航の道中で貨物船が事故に遭ってしまう。幸運にも船の沈没に巻き込まれることはなかったパイだったが、救命ボートに一緒に乗り込んできたトラと二人きりで広い太平洋を漂流することになった。そして彼の長い漂流が始まる。

パイが生き残った理由は何だったのかと考えれば、この映画のメッセージはそう難しいことではありません。それは「信仰を持つこと」。パイが漂流生活で精神崩壊に至らなかったのは、ひとえに「母親が他の男に殺され、投げ捨てられた遺体がサメに食べられていくのを目撃してしまった」という過酷な現実から、ありえそうもないトラとの漂流話を創作することで精神的ダメージの直撃を防ぐことに成功したからです。もしこの現実を直視したなら、正気で対処できる人は極僅かでしょうから。

船上でパイに襲いかかるトラは実はパイ自身だった。猛獣のトラとも心が通うはずとするパイに対して「お前はトラの瞳に映った自分の姿を見ているに過ぎない」と父親に教育としてトラがヤギを捕食する光景を見せられて以来、パイの心には空虚が巣食うようになります。その心の穴はその後に出会った恋人が埋めていましたが、その恋人とも離れてしまった。そして漂流時にはオランウータンがハイエナに殺されるシーンの次に、唐突にトラが登場しハイエナを食い殺します。オランウータンが母親でハイエナが乱暴なコックであったとの説明に従えば、突如出現したトラはパイ自身であり、それも三つの宗教への信仰によって隠していた父親に植え付けられた闇の部分です。唐突なトラの出現後、情景は穏やかな海が広がる中二人きりとなるトラとパイのシーンとなりますが、それは実は殺人に手を染めてしまったパイの自責と後悔の念を表すものでした。「自分の姿に過ぎない」トラとの日々は緊張を強いられるもので、トラとの格闘が漂流の大半を占めるわけですが、凶悪ながらも「知恵があった」コックの力を借りた同じ人殺しである負の自分にも頼らなければならない現状は、パイに過酷な精神的格闘を強いるものだったのでしょう。

上述の通り主人公パイは三つの宗教を信仰しています。しかしキリスト教に代表される一神教というよりも、多神教であるヒンドゥー教の影響が強いと感じました。*1ヒンドゥー教最高神として崇められるヴィシュヌ神は、アヴァターラ(化身)として様々な姿で現れるとされています。魚、亀やイノシシ等。それもあってか、船上のパイの台詞「神よ、魚の姿になって現れてくださりありがとうございます」にもあるとおり、世界の事象に神を見出す考えが強いと感じました。それが色濃く出ているのが「食人島」の場面でしょう。ヒンドゥー教では象徴とされるハスの花が登場したり、島の形自体がヴィシュヌ神の寝姿となっていたりしています。*2何にでもヴィシュヌ神が姿を現すことはすなわち、ヒンドゥー教に従えば何ものでも神を見出すことができるということにつながる。

この映画で裏テーマとなっているものに円周率があります。主人公の名前であるパイは周知のとおりそのものを表しているし、パイが漂流した「227日」という数字には「22÷7=3.14…」という意味が込められている。また、映画の導入部分では、「科学はこの100年で目覚ましい進歩を遂げてきた。宗教なら10,000年かかっても無理だ」として子供への宗教の影響を退けようとする父に対して「それはその通りだけど、重要なのは心の問題よ」と母が諭すシーンがある。
ここで紹介したいページが、打ち込まれた任意の数列について、円周率の数列の中で同様に並んで存在している部分を検索して表示してくれるサービス。
Pi-Search Results
ここで検索の対象となっているのは2億桁とのことなので、検索する数列を2桁にしてしまうと検索が引っかかりにくくなってしまうのですが、現在計算されている10兆桁を母体とすればさらに長大な数列も見つかる可能性が出てくると推測されます。

漂流の日数として示される円周率。この映画では信仰を持つことが主なメッセージなのですが、円周率の中に任意のものを見出すことが可能なように、人間は世界で起こっているあらゆる事象について意味を見出すことが可能なはずではないでしょうか。飢えた時に獲ることができた魚はヴィシュヌ神の生まれ変わりということもできるし、立ち寄った豊潤な島が実は凶悪な島だったとしてもそれも神の思し召しとすることができる。そしてそれは上述の母親の台詞の解釈であるとも言えるもの。それ自体では単なる事実として在る世の事象に意味を見出すのは決して無駄なことではありません。パイが空想の世界に逃避することで無事帰還することができたように。

人は何かを信じることなしには生きてはいけない。それは宗教に限ったものではなく、守りたい家族から好きな牛丼屋まで微々たることの基盤として機能する。この作品はすなわち、それまでのインドでの安定した生活から何もかも引き剥がされて荒れ狂う海にトラと漂流する羽目になった青年が、自身の創り出した虚構にすがりついた果てに何とか生還する物語だ。そして虚構にすがりついて生きているのは、悲運にも大災害に襲われた青年だけではない。職場での疲弊の果てに映画館に心の拠り所を見つけて何とか生きている私のようなサラリーマンや、AKBのメンバーを聖女だと信じてそのルールを押し付ける人等全てが同じなのだ。それは、どこへ私達を連れてってくれるかわからないが、一応は私達を生かしてくれる。

一度きりの人生、それなりに納得できるものを見つけて生きたいものですね。

*1:キリスト教としても理性を超えたものを表現しているならいいんじゃね?という意見もあったhttp://www.theamericanconservative.com/dreher/religion-life-of-pi/

*2:ソースはここ http://www.imdb.com/title/tt0454876/trivia?ref_=tt_trv_trv

セス・マクファーレン監督『テッド』

・テッド・ウィル・ハンティング

『テッド』観てまいりました。

2013年公開の映画で期待していた作品の一つでしたが、全米大ヒット作品と評判どおりの素晴らしい作品でした。こういうヒネリの効いた王道の作品をコンスタントに出してくるのがハリウッドのいいところだよな、と強く思います。

いじめっ子からいじめられっ子にまで相手にされずに孤立していた少年ジョンは、クリスマスプレゼントにクマのぬいぐるみをもらう。ジョンはただ一人の友達としてテディと名付けたそのぬいぐるみを大事にしていた。そんなある日ジョンが「君と本当に話せたらいいのにな」と願ったところテディに本当の命が!その何十年か後、テディはテッドとして見事なオッサンとなり、ジョンと一緒にテレビを見てはだらけた生活を共に送るようになっていた。しかしジョンの彼女ロリから自分と一緒になるならテッドと別れるよう告げられ…というお話。

映画の中で基本的な主題とされるのは登場人物の成長であるという論説は、近年広く受け入れられているテーゼです。主人公がまだ未熟な登場人物に試練が降りかかり、その困難に対応することを通じて主人公が最終的に父性や母性を得ていく、という流れは無意識的に私達が求めている物語のラインですし「父親殺し」といった神話的な観点でも重宝されていることが分かります。このとき、物語中の人物たちは境界人(マージナル・マン)として迷走することを求められる。彼らはそれまで受け入れていた自らの価値観を揺るがす出来事に直面し、根本的な信念の庇護のもとにいる安らぎから追放されて次の場所を探さなくてはならない。凡そ存在する大多数の映画とは、その境界人たちの迷走にフォーカスを当て2時間に引き伸ばしたものであると言えるでしょう。

今回の『テッド』では、主人公のジョンが「大人になりきれない」存在として登場し、彼女から、ジョンの幼少期を形成したと言っても過言ではない親友のテッドとの別れを迫られる。この映画の殆どはジョンとテッドのドタバタコメディとして呈示されていますが、ふと挿入されるテッド新居での別れのシーンなどは、ジョンとテッドの逡巡ぶりが胸に伝わってくるものでした。

もう一つ、この映画の特徴として80年代カルチャー関連について多くの言及がなされていることが挙げられます。『フラッシュゴードン』や『ナイトライダー』などこれでもかとばかりに会話や映像でオマージュが展開されるわけですが、私自身はクイーンの歌うフラッシュゴードンのテーマを何となく聞いたことあるかな、という位の身でほとんどの固有名詞については具体的にイメージすることができませんでした。下品ながらも意外と(?)知性を感じさせるテッドの会話から来る情報量は膨大で、80年代カルチャーに通じていない身からすれば会話が成り立たないだろうなとも思うのですが、しかしそれでも何とはなしに何かのオマージュかなと思わせてくれます。

もしかしたら、R-15映画なのにティーンを含めたヒットとなったわけはここにあるかもしれません。というのも、いい大人たちが真面目に自分たちの好きなアニメ等を語っている姿を見て子供たちは「よくわかんねーけど面白れ―」と思うはず。現に私もそのとおりで、ジェットコースターのように情報の奔流に流されるのを楽しむことができました。テーマとなっている文化を通過した世代なら楽しめるはずだし、そうでなくてもその世代に憧れをもつことができる面白さがありました。

とにかくコメディ作品として優れていながらハートフルさも持つ秀逸な作品です。セス・マクファーレン監督は新型の天才ともいうべき人物でしょう。なるべく多くの観客と観たほうが楽しい映画なのは間違いないので、洋画としては異例のヒットとなっている今観るべきなのではないでしょうか。ポップコーンでもつまみつつジョークの6割方に分かったふりして反応してれば楽しめますよ。


個人的に80年代カルチャーといえばこの辺。普段イケてない感じなのに、皆とは違うと思われたくてジャパニーズ80年代パンクに走るとかあるよねー。いや、そういう形から入るのも重要だと最近は思ってますよ。

ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督『ルビー・スパークス』

・だいたい青年期位の終わりに

新年明けましておめでとうございます。もう仕事始めをされている方が大多数だと存じますが、年始はいかがお過ごしだったでしょうか。ごゆるりと過ごされた方も多いのでは。

私といえば年末に買った新iPod touchに夢中になり、そして「いい心霊スポット探索アプリないかなー」とか思ってapp store検索してたら出会った月刊ムー提供「ムーぺディア」のムークイズにドハマりしておりました。ケネス・アーノルド事件やらクロップサークルやらの絶対に生活の役に立たない知識で頭を満たす快感といったら!世界は謎に満ちておりますね。

こんなこと書いてるからお前のベストムービーいつまでたっても『スーパーバッド童貞ウォーズ』なんだよ、と言われてしまいそうですが、本年もヘッポコながらも廃人にならない程度に頑張ってこの社会というジャングルをサヴァイヴしたいと存じておりますので、当ブログを何卒よろしくお願い申し上げますm(__)m


さて、『ルビー・スパークス』観てまいりました。

Ruby Sparks

Ruby Sparks

高校を中退した身でありながらも、19歳で書いた処女小説が一躍ベストセラーとなり若くしてトップ作家となったカルビン(ポール・ダノ)。将来を期待されていた彼だったが、第2作を完成することができないまま28歳となってしまっていた。スランプに陥ってしまい悶々とした日々を送っていたが、ある日夢に現れた女性のことを書き始めた途端筆が進むようになった。ルビー・スパークス(ゾーイ・カザン)と名付けた空想の彼女の物語を書き進めていたところ、なんとそのルビーが現実に現れ始めるようになる。最初は信じられない様子だったカルビンも、周りの反応からルビーが現実に存在していることを確認すると彼女との恋愛に没頭するようになる。それだけでなくルビーは、カルビンがタイプライターで書くとそのとおりの女性になってしまうのだった。果たして彼らの運命は…?というお話。

「自分の理想の女性を作り出してその娘と付き合いたい、きゃっきゃウフフしたい」という男性の欲望を対象にしたテーマは、映画や漫画等創作物に慣れ親しんだ身ならば覚えのあるものなのではないでしょうか。何故ならそこに出てくる人物達は、ある種我々の欲望を具現化したものであるからです。我々にとって他者でしか過ぎない作者が創り出したにも関わらず、登場してくる人物は我々受け手の願望を照射した存在であることが厳しく求められる。1篇の長編にて感情を伝えあっていた一昔前ならともかく、近年の作品の評判が直に作り手側に伝わるシステムの発達や週刊連載等求めに応じて物語を変化させることが可能な形態の普及につれて作り手と受け手のコミュニケーションは緊密になってきており、それは相互行為としてほぼ共同作業の様相を呈しています。我々受け手は、いわば意見という磁力をもって作者の物語を間接的に操作する身であり、その結果完成されたものを享受していると言えるでしょう。一例として、P-MODEL平沢進氏は、「80年代のP-MODELは観客が育てたという自負がある」という当時のファンの言葉を事実に近いものとして捉えているようです。*1

そして近年のサブカルチャーにおいて相互行為性は一層露骨なものとなっております。卑近な例でいえば少し前の少年ジャンプ。一部の熱狂的な女性のファンの影響を無視することができず、結果的に少年のための雑誌という点から離れていってしまった。あるいは、時にハーレムアニメと揶揄される、一人の青年主人公に多数の美女が求愛を始めるアニメが今なお隆盛していること。いずれの例にしても、受け手側の”欲望”への作り手側の配慮を強く感じさせるものです。

ルビー・スパークス』では、主人公の肥大化した欲望が上手く通らなくなる様が徐々に、しかし如実に示されます。自分以外の友達を作り、自分を差し置いてバーでその友達と楽しんでいるルビーに嫉妬して「ルビーはカルビンから離れられない」と記入するカルビン。その後書いたとおりにルビーはカルビンの部屋に飛ぶようにして帰ってきますが、その後のルビーの四六時中離れようせず横断歩道で離れ離れになっただけで世界の終わりのように絶望してしまう様を見て、カルビンはこんなはずじゃなかったという顔をする。そのカルビンの残念な心情は、当初のルビーの美しさを目の当たりにした我々に対しても同様に伝わってくるはず。この辺りで我々は、美男美女の幸福な関係を紡ぐと思われた物語の歯車が狂ってきたのを心の奥底で感じます。

そして二人の関係の破綻が決定的となるシーン。カルビンのとった行動は全く褒められたものではなく、幼稚で、相手の心情への配慮がないもの。しかし事態を更に悲劇的にしてしまうのが、そのとおりにルビーが行動してしまうということです。自分の理想の生活を構築するためであったはずの手段が却ってその生活の薄っぺらさを暴露してしまう瞬間がここにある。相手を思い通りにするということが必ずしも幸福に直結しないということは、主人公にとっても観客にとっても一つの気付きであることでしょう。かつて幸福だった関係は、それを生み出したカルビン自らの手によって決別される。

上記の例で示した「世界は全て俺の物」的態度に、私は強い幼児性を感じます。もちろん少年を対象にした創作物だけではなく、それは形を変えて青年対象のものにも表れていて、大多数がその独占的行為を享受していることは否めません。しかしそれでもあれも嫌だこれも嫌だこの態度のこの娘だけがいいんだというカルビン的態度は自意識の狭隘さを感じさせますし、彼は自分の妄想とは異なる現実に対する正面からの認識を拒絶しています。

ここにこの作品の作り手側の意図があるでしょう。自分の思い通りに行ってしまいすぎることにも人間は不満を持ってしまう。それに対して我々は、自分ではない他者の、コントロールできない部分に対して誠実に向き合うことでしか関係を保つことができない。あるいは、ある他者は自分の一部ではない、ということを経験によって重々承知した人間のみが他者と向き合うことができるのだ、というメッセージをカルビンの喪失を通じて我々へ伝えています。むしろ、自分ではコントロールできない他者が存在するということは幸福ですらあるのではないでしょうか。何故ならその感覚をもって逆説的に「自分は一人ではない」という認識を持つことができる可能性があるからです。自分の一部ではない他者がそこには確かに存在するという前提が正常な人間関係を持つためには必要なのではないでしょうか。説教臭くなってしまったかもしれませんが、自意識中心で物事を考えがちな自分のような引き籠りがちな人間にとっては、どこかしらに心にくるものがある作品でした。というかこれ観せたら泣きが入りそうな、大人になりきれてない人間が何人か俺の周りにはいるぞ(笑)!オタクの男が普通の女の子を誘って観るのには丁度良いバランスの作品ではないかと。


ルビー演じるゾーイ・カザンのゆるふわ&奔放さが感じさせるズーイー・デシャネルっぽさといい、恋愛の破局を通じて男が成長するストーリーといいこれまんま『(500)日のサマー』やろ…そっちはジョセフ・ゴードン=レヴィットが草食リア充過ぎてあんまりハマれなかったのですが、今作についてはポール・ダノのオタクっぽさが現代的であったためかかなり親しみをもって観ることができました。でも『リトル・ミス・サンシャイン』の観た後の観客を選ばない爽やかさからすると、女の子を自由自在にするという題材からしてすごく観る人を選んでしまう作品かもしれないとも思いますね。あとこの映画の主演2人は実際にも付き合ってるらしいですね*2。うん、爆発しろ。幸福の可能性は常に開かれているものの、それに見放されているとさらに惨めさを感じる昨今です。

以上カップルだらけの渋谷のパルコで新年早々この映画を観るのは凄い気が引けた私からの新年一発目エントリでした。


ズーイー・デシャネルには僕らのベン・ギバードを傷物にされた恨みがあるのですよ!ゴメン嘘。最近のデスキャブ追い切れてない。去年のサマソニにも行かなかったし。

光原伸『アウターゾーン リ:ビジテッド』

アウターゾーン リ:ビジテッド 1 (集英社ホームコミックス)

アウターゾーン リ:ビジテッド 1 (集英社ホームコミックス)

幼い頃に自分が読んでいた漫画が復活したという情報をツイッター上で目にしたのは、この本が発売になる前日。とても胸が高まりました。何故なら、自分の人生においてこの漫画が与えた影響が大きいとこのところとみに感じていたから。

例えば少年ジャンプで連載していた当時の話で挙げるなら、「フォーチュンペンダント」は自分が幸福になるペンダントが実は周りを不幸にしている魔性の物品だという話だが、それは自分の心の奥底に同様の事態が現実にも多々あるという人生訓として流れている。そして初期の名作として名高い「わしはサンタじゃ!」は子供のころからずっと好きだったし、大人となった今読み返しても独特の感傷をどうしても受けてしまう。子供のころに触れた作品を改めて振り返ってみるとまるでその文脈のままに人生を歩んできてしまったかのような感覚を受ける時があるが、今作も自分にとっての青写真であるかのように重要な作品だ。

アウターゾーン』が当時小学生だった自分に大きな影響を与えた点は「人々が表立って称賛しないマイナーな領域にも楽しみは多くある」ということを教示してくれたことだと思う。この漫画が親の趣味で家の本棚にあったせいで、同世代の皆がジャンプでは飛ばして読むような作品*1に面白味を見出すようになった。そしてセクシー描写や後味の悪い悪趣味な物語展開を分かったふりして背伸びしたつもりになりつつ、その実スプラッター表現を含むホラー(タクシー強盗のやつとか未だにトラウマ)には心底ビビっていた。その内にスラムダンクドラゴンボールといった王道漫画に通じることがないまま少年時代を過ごしたのは正直後悔しないでもない。そしてそのお蔭もあってかその少年は青年になるにつれて後サブカルや匿名掲示板というまたよく分からない海へ向かうことになってしまった。

時折挟まれるSF作品にはバッドエンドあるいは空虚感が伴うものが多いが、それは星新一藤子・F・不二雄といった先達から受け継がれてきたものだと知るようになれたのは成長するにしたがって得ることができた数少ない収穫だと思う。色んなものの遺伝子は隠れて流入されるものなんだろう。

今回17年ぶりの単行本化ということだけれども、色々不安が無かった訳ではなかった。というか復活ならば知っている限りで言えば2005年に一度、文庫本の番外編という形で行われている。その時はストーリーが殆ど無いミザリーさん萌えのための短編だったため印象に残ることが少なく、むしろ物語が書けなくなってしまったのではないかと心なしか危惧してしまうところがありました。しかし今回、蓋を開けてみればどの作品を取っても当時の雰囲気に満ちており、また絵柄に関しても今風の画とは一線を画していながらも今の漫画好きにも面白いと思ってもらえる訴求力を持っています。というかミザリーさんが未だにセクシーなのがリビドー云々を差し置いてこんなにも素直に嬉しいとは!噂では『アウターゾーン』終了後地元にて飲食店を経営していたとのことだが、今作はそんなブランクを感じさせない出来となっており、作者が未だに優れた漫画家であると信頼させてくれる。後味の悪さ、B級映画等の影響からくる悪趣味さ*2もまだまだ気概があるところを感じさせてくれ嬉しい限り。

週刊連載当時は物語の結末に悩むことも多く徹夜作業も厭わなかったとのことですが、願わくば今後も息の長い活動をしてもらえればと思います。かつて軽妙なタッチで奥深いマイナー世界へ誘う入口であったこの作品が、2012年の今になっても存在していることが心の支えになっている人間がここにいますから。時に残酷で時に心温まるユニークな世界を知り尽くした語り部を、私はいい大人になってもまだ必要としているのだと思う。


ところで

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

今を時めく荒木先生のホラー映画愛溢れるこの著作を読む限り、二人の映画嗜好が酷似していると感じざるを得ないのですがどうなんでしょう。『アウターゾーン』中にオマージュ作品がある『ペットセメタリー』や『猿の手』についてこの本で言及していたり、単行本内の裏話で光原氏が絶賛していた『サンゲリア』を荒木先生が紹介していたりとB級映画の共通点が共通するところが多すぎるように思います。アウターゾーンが連載されていた時期はちょうどそのままジョジョが連載されていた時期。もしかして2人に交流があったりしたら…そんな空想を抱かずにはおられません昨今です。

*1:当時のジャンプでは『アウターゾーン』の掲載位置より後ろに来た漫画は打ち切りの危機を示している、というリトマス試験紙のような役割を果たしていたという話は有名。ただし自分の記憶では殆どジャンプの一番後ろでの掲載だったような…

*2:ジャンプ連載当時に続いて再びエドガー・ア・ランポ―『黒猫』のオマージュ作品が!

2012年を振り返ろう

こんにちはこんにちは。2012年も残りわずかとなってしまいましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。2012という数字にやっと慣れたと思ってたらもうこんな時期。今年は社会人2年目ということで数々の重荷を背負わされ何とか生き延びることができた1年でしたねー(遠い目)来年はこの状況が改善されてるとよいのですがどうなってしまうんでしょう。

それはさておき、今年も映画をよく観た年となりました。全体的に前半が特に不作だった印象が強く(特にアカデミー賞関連がね…)何だかなーと思う時もありましたが後半になって良作に数多く出会えたので総じて私は元気です。それでは行ってみましょう、今年の10本です。

1:沖田修一監督『キツツキと雨

2012年度第1位は邦画からのエントリーとなりました。とにかく2012年の自分自身を象徴していた映画。気弱な小栗旬と朴訥でツッケンドンな役所広司のたどたどしいコミュニケーションが次第に結果を生み出す様に心を動かされた。壁にぶち当たった新人監督が周りから判断を求められ苦悩するさまがこれ何て今の俺?状態でした。そしてあの体育館の集合シーンでの物事がうまく回り始めた瞬間の演出にどれほど生きる希望を与えられたことか。個人的には最初のシーンで帰ってしまった新人にも同情してしまうところ。今年冒頭にこの作品を観たことでその後の作品の基準が上がってしまい2012年前半はあまりテンションの上がらない映画ライフとなってしまいました。隠れた佳作との評判も高い今作ですが、私自身の人生のシーンと重なる瞬間があって個人的には堂々たる一位です!

2:スティーブン・マックイーン監督『シェイム

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キツツキと雨』ととも2012年の自分を代表している映画…と言ってこの作品を紹介してしまうのはやや気が引けるのですが(笑)不全感及び孤独感をこれでもかと表現しきってしまったこの監督に脱帽。セックス中毒の男が辿る道は痛みに満ちており、それに2時間付き合ってしまった私は共感して心をズタボロにされる羽目に。最後主人公が泣くシーンは、画としては淡々としていたがその心の叫びを思うと同じような空虚感に悩まされている人間にとっては涙なくしては観られない。心の深くで求めるものを得られない人間の業の深さを、端から見ているだけでなくよりリアルなものとして捉えた作品でした。

3:ギャレス・エヴァンス監督『ザ・レイド

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中学のころ観た『酔拳2』の衝撃再び。悪党どもがウジャウジャいる30階建てのビルの中、規制すれすれの暴力表現で繰り広げられるシラット絵巻!殴っても殴っても倒れない敵に更に連続でパンチを入れ続けるイコ・ウワイスの姿にしびれた。これを観た後では『エクスペンダブルズ2』も何だか間延びした映画のように見えてしまった。個人的には相手の頭を壁に三回ガンガンガンってぶつけるとこがベストでした。

4:ベン・アフレック監督『アルゴ』

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息つかせない展開で観ているこっちを一瞬も飽きさせない素晴らしい映画!イランでカナダ大使館に匿われている大使館員5人を映画撮影のクルーに見立てて脱出させるという捻くれたプロットもさることながら、至る所で演出される70年代感の雰囲気が最高。そして極秘任務のスリルをそのまま最後まで持っていくベンアフレックの手腕は素晴らしいと思います。派手なことをしなくても面白い映画は撮れることを証明したのは大きいのでは。アルゴ、●●●●●●●●●!

5:ブラッド・バード監督『ミッション・インポッシブル4 ゴースト・プロトコル

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21世紀でも再現されるスパイ大作戦!最初の爆弾の導火線が進んでいくオープニングで「あれこれスゲー面白いかも…」と抱かされた期待を最後まで裏切らない最高のエンターテイメント。見せ所を分かってるトムクルーズの全力を見せられたらそりゃもう絶賛するしかないです。低調と見られていた逆境を跳ね返したトム・クルーズに拍手!

6:トマス・アルフレッドソン監督『裏切りのサーカス

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2時間にわたる画の彫刻とも言うべき作品。デヴィッド・フィンチャーがやるべきだった仕事をこなしたこの監督の美的センス恐るべし。俳優陣も皆素晴らしかった。続編の製作も進んでいるらしいので超楽しみ。登場人物多いわ時間軸ブレまくるわで本筋が掴みにくいったらありゃしないのになんで俺は最後泣きそうになっているんだろう…と思ってしまいました。

7:ウィル・グラッグ監督『小悪魔はなぜモテる!?』

近年制作された学園映画のものでは一番の作品なのではないでしょうか。社会の縮図ともいうべき過酷な学園生活を生き抜くための知恵や気概に溢れている。「辛い時はユーモアで乗り切るのよ」の言葉にどんなに励まされたことか。この作品でのエマストーンはロックンロールそのものだ!

8:森義隆監督『宇宙兄弟

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大予算制作映画の邦画として今作に触れないわけにはいきません。原作ファンではなかったので比較はできなかったのですが、それでも弟に追いつけないジレンマを織り込んだストーリーテリングに好感を持たずにはいられませんでした。あのスペースシャトル発射シーンは日本国民全員が観に行くべき!We choose to go to the moon!

9:バディ・コンシダイン監督『思秋期』

割とリアルに迷惑なおじいちゃんktkr!高齢者が皆心優しく若者を扱ってくれるわけではないし、年を取ろうと不条理に苦しめられることから解放されるわけではない。そう、問題は年月を追うごとに複雑に付きまとってくる。でも決してその対処法がないわけではない。あのパーティシーンや刑務所での二人の姿を見て、人生は無意味であると言うことはできません。高齢化社会に向かう日本人に対しても響いてくるメッセージがこの映画にはあると思います。

10:リー・タマホリ監督『デビルズ・ダブル

いやこれめちゃくちゃ面白かったんスけど…『アルゴ』同様実話をベースにしたイスラムが舞台の作品だけど、ドミニククーパー気合の2人演技と時折出てくる容赦のない展開がドスが効いてて面白かった。あちらもこちら以上のシグルイ社会のようで。父親からの電話を受けるシーンは屈指の名場面でした。にしてもこれで実際のウダイの凶行に及ばないってどんだけなんでしょうね。
 
そのほか、『J・エドガー』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』『ミッドナイト・イン・パリ』『先生を流産させる会』『アベンジャーズ』『最強のふたり』『夢売るふたり』『悪の教典』『スカイフォール』などが好印象でした。前半あまり良い映画が無かった分後半の良作ラッシュがとても嬉しかった。未見の作品では『ふがいない僕は空を見た』『ルビースパークス』を観れなかったことが心残りです。

今年度ワースト作品は『希望の国』。これまで園子温作品を好意的に見てきた私でもこの作品はいただけなかった。抑圧を行う強大な父性からの解放をテーマに内省的感情の爆発をメインにした作品を作り続けていた氏が震災を問題とした今作で対象領域の射程を広げたわけですが、物語が全く機能していなかった。危険が潜んでいる世界でそれでも守るべき人を抱きしめて生きていこうという、それってミスチルが何年も前に通った道だよねとしか…現時点で堤幸彦氏に最も近い存在だと思います。

音楽は昨年から聴いてるものがあんまり変わらなくなってしまいました。よく聴いていたのはGold panda,きゃりーぱみゅぱみゅ,Naked and Famous,Best Coast,ユニコーンとかで中心に聴いてて新譜はRobert Glasperくらい。早くシャレ乙野郎になりたい…

あとスティーヴ・ライヒ本人も来日した"Drumming"公演を聞き逃したことが悔やまれてならないです。音源自体がそんなに好みじゃないからと思っていかなかったんですが当日の観客は反響音も含めたライブ体験ができたとか。当日の感想を歯を食いしばる思いで眺めておりました…

それではランキングは以上です。更新はもう何件かしたいなと思っておりますが映画自体はもう見納めした感が強いのでランキングに変更はありません。そして以下は恒例の雑文となりますのでお暇でしたら御覧ください。年々自分のボンクラぶりに磨きがかかっているような気がしますがそれでも作品通じて感じたことを形にできたらと思っておりますので今後も当ブログを読んでいただけましたら幸いです。来年も皆平穏無事に暮らすことができる1年になったら良いですね。

それでは来年もよろしくお願いいたします。

(noman29)

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・もっと信念を!

2012年はひどい年だった。無限の責任、終わらない仕事、改善しない自らのコミュニケーション能力、そして壊れていく職場の空気。4月から新体制になったはいいものので前半はどうやって凌いできたか今思い出そうとしてもあまり記憶がないほどシビアだった。震災後の社会を背景に決定的に壊れていく人間関係を泳がざるを得なかった1年だと言っていい。

そんな中読んだ『闇金ウシジマくん』の「生活保護くん」シリーズには胸を抉られた。あそこに描かれていた社会のルールを拒絶してNPO活動に勤しむキャラクター達はそれこそ自分の分身ともいうべき存在だったからだ。学生時代の社会貢献活動への興味は、言い換えれば「社会」にコミットせずに生きるにはどうしたらいいか考えた上での行動だったし、自分なりの「社会」へのスマートな反抗のつもりだった。その後そちら側の裏側を見てしまい挫折したため晴れて一社会人として生きることとなったが、未だに慣れない洋服を着せられている感覚は抜けない。しかしもう元には戻れない。これまでいた場所の腐敗も目につくようになってしまったからだ。一時期の社会貢献活動ブームは何だったのだろうか、と未だに思い返す。当時もてはやされていたボランティア活動に身を投じたもう一人の私が、あの漫画のシリーズにいるといっていいだろう。最後に震災後の生き方に希望を示していた分まだ良心的ではあったが。

さて、震災後で日本社会は変わったか?と問われたら総じて「NO」という他無いだろうということが分かっただけでも2012年は価値があったと言える。事なかれ主義社会の中であれだけデモがあったにも拘らず脱原発の機運は終焉しつつあるし、リベラルへの政権交代があってもシステムが根本的に変わることはなかった。又聞きの情報だが震災地でも助成金の恩恵に預かるのは”書類作成のうまい”ところであり本当に必要なところに資金が渡っていないという。官僚制の概念を打ち立てたマックス・ヴェーバーの主張の正当性があらゆる層を通じて証明されつつある。

ヴェーバーといえば、支配の正当性についても今の日本で喫緊の問題として現出されているといえるだろう。法律等あらゆる秩序の合法性とその正確な行使からなる合法的支配と、古くから伝えられている伝統に信頼を置く伝統的支配、そしていわゆるカリスマ性を持ったリーダーのもと人々が参集し革命的に支配するカリスマ的支配。この3つの形態について重要なことは、本当の意味で決定的な妥当性がある支配形態などない、ということだ。ウェーバー自身は合法的支配と緊密な関係にある官僚制の概念の発明者であり擁護者であるが、それでも支配形態の「妥当性」自体は人々の信念に依拠するものであり、それは時として緊密に設計された社会システムに抗う意志をも生みだしうるのである*1。ある映画に「この国のシステムは機能不全に陥っている」との台詞があったが、それは既にマートンヴェーバーを批判する際に指摘したところである。問題のあり方自体は何も変わってはいないのだ。

そして今現在カリスマ的支配が勃興しようとしている日本であるが、このカリスマ的支配において重要なのは人々の支持が直接その妥当性を担保するということだろう。事実その系譜に属するとされる政治家は人々の支持の取り付けに躍起になっている。それはとどのつまり人々の信念の量が妥当性を決定しうるからだ。カリスマ的支配で主張される善はその個人の直観的なものが多くであり、そしてその直観をどれほど広く人々の間で共感できるかにかかっている。しかしその信念は直観的であるが故にとてもとても移ろいやすいものだし、フランス革命が完了後に起こったのが恐怖政治だったように、ミイラ取りがミイラになるという言葉がそのまま当てはまる危険性を持つ。

そしてもしあなたが大多数の信念が取り付けられた行動に反対せざるを得ない立場になったとしたら、確固とした信念、つまり信念の質をもって対応する必要がある。一人の存在、一つの言葉がどれだけの影響力を持つのかは考えるに絶望的だ。それでも、一人の信念が他人の支持なしに正当化されることはないから、私達は常に他者を求め続ける。重要なのは、主要なものではなくとも人と通じる道を見つけることだ。私達はすでに信頼関係の形態が一様ではないことを、映画や音楽や物語を通じて知っている。

引きこもり体質が抜けない私が社会人になって良かった数少ない点(生活の維持以外で)をあげるとすれば、社会がどんなにデタラメか目にすることが多くなったことだ。一つの理論が我が物顔でまかり通るほど甘くはないし、本当に自らの想像がつかない色々な人間にぶち当たる。近年組織論について語られる文章を散見するようになったが、それと反比例するかのようにシステムは年々人々の感情の形にそぐわなくなってきている。人を守るための秩序が時として人を苦しめる、そんな場面に数多く遭遇してきた。もちろん気のいい人々にもたくさん会うことができたし、未熟かつ世間知らずの自分に忍耐強く当たってくれている先輩がいることは言及しておかなければならないが、それを差し引いても「生きるのって大変だなぁ」というのが総じての今年の感想だ。来年もただでは生かしてはくれないし、社会や他者は私の信念を揺るがし続けるだろう。


もしあなたが人々の感情を守りはしない不都合なシステムにぶち当たってもがき苦しんでいるとしたら、そう思っているのは少なくとも一人だけではないということだけは知っておいてほしい。そしてあなたを支持する信念は至るところにある、と信じている。

*1:この辺は伊藤計劃『ハーモニー』が優れた描写を行っている。