セス・マクファーレン監督『テッド』

・テッド・ウィル・ハンティング

『テッド』観てまいりました。

2013年公開の映画で期待していた作品の一つでしたが、全米大ヒット作品と評判どおりの素晴らしい作品でした。こういうヒネリの効いた王道の作品をコンスタントに出してくるのがハリウッドのいいところだよな、と強く思います。

いじめっ子からいじめられっ子にまで相手にされずに孤立していた少年ジョンは、クリスマスプレゼントにクマのぬいぐるみをもらう。ジョンはただ一人の友達としてテディと名付けたそのぬいぐるみを大事にしていた。そんなある日ジョンが「君と本当に話せたらいいのにな」と願ったところテディに本当の命が!その何十年か後、テディはテッドとして見事なオッサンとなり、ジョンと一緒にテレビを見てはだらけた生活を共に送るようになっていた。しかしジョンの彼女ロリから自分と一緒になるならテッドと別れるよう告げられ…というお話。

映画の中で基本的な主題とされるのは登場人物の成長であるという論説は、近年広く受け入れられているテーゼです。主人公がまだ未熟な登場人物に試練が降りかかり、その困難に対応することを通じて主人公が最終的に父性や母性を得ていく、という流れは無意識的に私達が求めている物語のラインですし「父親殺し」といった神話的な観点でも重宝されていることが分かります。このとき、物語中の人物たちは境界人(マージナル・マン)として迷走することを求められる。彼らはそれまで受け入れていた自らの価値観を揺るがす出来事に直面し、根本的な信念の庇護のもとにいる安らぎから追放されて次の場所を探さなくてはならない。凡そ存在する大多数の映画とは、その境界人たちの迷走にフォーカスを当て2時間に引き伸ばしたものであると言えるでしょう。

今回の『テッド』では、主人公のジョンが「大人になりきれない」存在として登場し、彼女から、ジョンの幼少期を形成したと言っても過言ではない親友のテッドとの別れを迫られる。この映画の殆どはジョンとテッドのドタバタコメディとして呈示されていますが、ふと挿入されるテッド新居での別れのシーンなどは、ジョンとテッドの逡巡ぶりが胸に伝わってくるものでした。

もう一つ、この映画の特徴として80年代カルチャー関連について多くの言及がなされていることが挙げられます。『フラッシュゴードン』や『ナイトライダー』などこれでもかとばかりに会話や映像でオマージュが展開されるわけですが、私自身はクイーンの歌うフラッシュゴードンのテーマを何となく聞いたことあるかな、という位の身でほとんどの固有名詞については具体的にイメージすることができませんでした。下品ながらも意外と(?)知性を感じさせるテッドの会話から来る情報量は膨大で、80年代カルチャーに通じていない身からすれば会話が成り立たないだろうなとも思うのですが、しかしそれでも何とはなしに何かのオマージュかなと思わせてくれます。

もしかしたら、R-15映画なのにティーンを含めたヒットとなったわけはここにあるかもしれません。というのも、いい大人たちが真面目に自分たちの好きなアニメ等を語っている姿を見て子供たちは「よくわかんねーけど面白れ―」と思うはず。現に私もそのとおりで、ジェットコースターのように情報の奔流に流されるのを楽しむことができました。テーマとなっている文化を通過した世代なら楽しめるはずだし、そうでなくてもその世代に憧れをもつことができる面白さがありました。

とにかくコメディ作品として優れていながらハートフルさも持つ秀逸な作品です。セス・マクファーレン監督は新型の天才ともいうべき人物でしょう。なるべく多くの観客と観たほうが楽しい映画なのは間違いないので、洋画としては異例のヒットとなっている今観るべきなのではないでしょうか。ポップコーンでもつまみつつジョークの6割方に分かったふりして反応してれば楽しめますよ。


個人的に80年代カルチャーといえばこの辺。普段イケてない感じなのに、皆とは違うと思われたくてジャパニーズ80年代パンクに走るとかあるよねー。いや、そういう形から入るのも重要だと最近は思ってますよ。