アン・リー監督『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(ネタバレ)

たまたまネットで出会って以来、ずっと心に残り続けているとても好きな話がある。

大戦中にドイツ軍の捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内の喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を作った話を思い出した。

・・・そのグループが収容されてた雑居房バラック、その隅に置かれた一つの席は、13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ)

彼らグループの中で、喧嘩や口論など紳士らしからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。
着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自がささやかな手作りのプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。
・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、監視のドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているものと勘違いして、彼らの雑居房を天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。
だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂や自殺したりする中、そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。

泣ける2ch:捕虜を勇気付けた架空の少女

要するに、信じる者は救われるという話だ。信仰の対象となったのが少女ということで好事家達の目に晒されることになったと思うのだけれど、その俗っぽさが好感が持てるし、色んな話に広がりうる可能性を感じるから好きだ。

その話自体の出自がはっきりしないという点も含めて。

Life Of Pi

Life Of Pi

ライフ・オブ・パイ』は一言で言ってしまえば信仰の物語だ。主人公のパイは幼少期をヒンドゥー教キリスト教イスラム教に触れ全てに親近感を持つ少年として過ごす。自分の病気を治してくれるよう毎日神に祈ったが結局自分を救ってくれたのは西洋医学だった経験から科学主義を信望する父と、植物学者でありながら自らが勘当された家のことをヒンドゥー教への信仰を通じて思うことで精神を保つ母。その二人の下で育ったパイは、宗教的に多感な青年期を過ごすことになる。教会でキリスト教に出会い、また地面に頭を付けることで神を感じるとしてヒンドゥー教に心酔する。そんなパイに人生を揺るがす事件が起こる。一家がそれまで所有していた動物園を閉鎖し、動物を連れてカナダに移住することになるのだ。恋人にも恵まれたパイだったが彼女に別れを告げ、家族とともに貨物船に乗り込むことになる。しかしその渡航の道中で貨物船が事故に遭ってしまう。幸運にも船の沈没に巻き込まれることはなかったパイだったが、救命ボートに一緒に乗り込んできたトラと二人きりで広い太平洋を漂流することになった。そして彼の長い漂流が始まる。

パイが生き残った理由は何だったのかと考えれば、この映画のメッセージはそう難しいことではありません。それは「信仰を持つこと」。パイが漂流生活で精神崩壊に至らなかったのは、ひとえに「母親が他の男に殺され、投げ捨てられた遺体がサメに食べられていくのを目撃してしまった」という過酷な現実から、ありえそうもないトラとの漂流話を創作することで精神的ダメージの直撃を防ぐことに成功したからです。もしこの現実を直視したなら、正気で対処できる人は極僅かでしょうから。

船上でパイに襲いかかるトラは実はパイ自身だった。猛獣のトラとも心が通うはずとするパイに対して「お前はトラの瞳に映った自分の姿を見ているに過ぎない」と父親に教育としてトラがヤギを捕食する光景を見せられて以来、パイの心には空虚が巣食うようになります。その心の穴はその後に出会った恋人が埋めていましたが、その恋人とも離れてしまった。そして漂流時にはオランウータンがハイエナに殺されるシーンの次に、唐突にトラが登場しハイエナを食い殺します。オランウータンが母親でハイエナが乱暴なコックであったとの説明に従えば、突如出現したトラはパイ自身であり、それも三つの宗教への信仰によって隠していた父親に植え付けられた闇の部分です。唐突なトラの出現後、情景は穏やかな海が広がる中二人きりとなるトラとパイのシーンとなりますが、それは実は殺人に手を染めてしまったパイの自責と後悔の念を表すものでした。「自分の姿に過ぎない」トラとの日々は緊張を強いられるもので、トラとの格闘が漂流の大半を占めるわけですが、凶悪ながらも「知恵があった」コックの力を借りた同じ人殺しである負の自分にも頼らなければならない現状は、パイに過酷な精神的格闘を強いるものだったのでしょう。

上述の通り主人公パイは三つの宗教を信仰しています。しかしキリスト教に代表される一神教というよりも、多神教であるヒンドゥー教の影響が強いと感じました。*1ヒンドゥー教最高神として崇められるヴィシュヌ神は、アヴァターラ(化身)として様々な姿で現れるとされています。魚、亀やイノシシ等。それもあってか、船上のパイの台詞「神よ、魚の姿になって現れてくださりありがとうございます」にもあるとおり、世界の事象に神を見出す考えが強いと感じました。それが色濃く出ているのが「食人島」の場面でしょう。ヒンドゥー教では象徴とされるハスの花が登場したり、島の形自体がヴィシュヌ神の寝姿となっていたりしています。*2何にでもヴィシュヌ神が姿を現すことはすなわち、ヒンドゥー教に従えば何ものでも神を見出すことができるということにつながる。

この映画で裏テーマとなっているものに円周率があります。主人公の名前であるパイは周知のとおりそのものを表しているし、パイが漂流した「227日」という数字には「22÷7=3.14…」という意味が込められている。また、映画の導入部分では、「科学はこの100年で目覚ましい進歩を遂げてきた。宗教なら10,000年かかっても無理だ」として子供への宗教の影響を退けようとする父に対して「それはその通りだけど、重要なのは心の問題よ」と母が諭すシーンがある。
ここで紹介したいページが、打ち込まれた任意の数列について、円周率の数列の中で同様に並んで存在している部分を検索して表示してくれるサービス。
Pi-Search Results
ここで検索の対象となっているのは2億桁とのことなので、検索する数列を2桁にしてしまうと検索が引っかかりにくくなってしまうのですが、現在計算されている10兆桁を母体とすればさらに長大な数列も見つかる可能性が出てくると推測されます。

漂流の日数として示される円周率。この映画では信仰を持つことが主なメッセージなのですが、円周率の中に任意のものを見出すことが可能なように、人間は世界で起こっているあらゆる事象について意味を見出すことが可能なはずではないでしょうか。飢えた時に獲ることができた魚はヴィシュヌ神の生まれ変わりということもできるし、立ち寄った豊潤な島が実は凶悪な島だったとしてもそれも神の思し召しとすることができる。そしてそれは上述の母親の台詞の解釈であるとも言えるもの。それ自体では単なる事実として在る世の事象に意味を見出すのは決して無駄なことではありません。パイが空想の世界に逃避することで無事帰還することができたように。

人は何かを信じることなしには生きてはいけない。それは宗教に限ったものではなく、守りたい家族から好きな牛丼屋まで微々たることの基盤として機能する。この作品はすなわち、それまでのインドでの安定した生活から何もかも引き剥がされて荒れ狂う海にトラと漂流する羽目になった青年が、自身の創り出した虚構にすがりついた果てに何とか生還する物語だ。そして虚構にすがりついて生きているのは、悲運にも大災害に襲われた青年だけではない。職場での疲弊の果てに映画館に心の拠り所を見つけて何とか生きている私のようなサラリーマンや、AKBのメンバーを聖女だと信じてそのルールを押し付ける人等全てが同じなのだ。それは、どこへ私達を連れてってくれるかわからないが、一応は私達を生かしてくれる。

一度きりの人生、それなりに納得できるものを見つけて生きたいものですね。

*1:キリスト教としても理性を超えたものを表現しているならいいんじゃね?という意見もあったhttp://www.theamericanconservative.com/dreher/religion-life-of-pi/

*2:ソースはここ http://www.imdb.com/title/tt0454876/trivia?ref_=tt_trv_trv