ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督『ルビー・スパークス』

・だいたい青年期位の終わりに

新年明けましておめでとうございます。もう仕事始めをされている方が大多数だと存じますが、年始はいかがお過ごしだったでしょうか。ごゆるりと過ごされた方も多いのでは。

私といえば年末に買った新iPod touchに夢中になり、そして「いい心霊スポット探索アプリないかなー」とか思ってapp store検索してたら出会った月刊ムー提供「ムーぺディア」のムークイズにドハマりしておりました。ケネス・アーノルド事件やらクロップサークルやらの絶対に生活の役に立たない知識で頭を満たす快感といったら!世界は謎に満ちておりますね。

こんなこと書いてるからお前のベストムービーいつまでたっても『スーパーバッド童貞ウォーズ』なんだよ、と言われてしまいそうですが、本年もヘッポコながらも廃人にならない程度に頑張ってこの社会というジャングルをサヴァイヴしたいと存じておりますので、当ブログを何卒よろしくお願い申し上げますm(__)m


さて、『ルビー・スパークス』観てまいりました。

Ruby Sparks

Ruby Sparks

高校を中退した身でありながらも、19歳で書いた処女小説が一躍ベストセラーとなり若くしてトップ作家となったカルビン(ポール・ダノ)。将来を期待されていた彼だったが、第2作を完成することができないまま28歳となってしまっていた。スランプに陥ってしまい悶々とした日々を送っていたが、ある日夢に現れた女性のことを書き始めた途端筆が進むようになった。ルビー・スパークス(ゾーイ・カザン)と名付けた空想の彼女の物語を書き進めていたところ、なんとそのルビーが現実に現れ始めるようになる。最初は信じられない様子だったカルビンも、周りの反応からルビーが現実に存在していることを確認すると彼女との恋愛に没頭するようになる。それだけでなくルビーは、カルビンがタイプライターで書くとそのとおりの女性になってしまうのだった。果たして彼らの運命は…?というお話。

「自分の理想の女性を作り出してその娘と付き合いたい、きゃっきゃウフフしたい」という男性の欲望を対象にしたテーマは、映画や漫画等創作物に慣れ親しんだ身ならば覚えのあるものなのではないでしょうか。何故ならそこに出てくる人物達は、ある種我々の欲望を具現化したものであるからです。我々にとって他者でしか過ぎない作者が創り出したにも関わらず、登場してくる人物は我々受け手の願望を照射した存在であることが厳しく求められる。1篇の長編にて感情を伝えあっていた一昔前ならともかく、近年の作品の評判が直に作り手側に伝わるシステムの発達や週刊連載等求めに応じて物語を変化させることが可能な形態の普及につれて作り手と受け手のコミュニケーションは緊密になってきており、それは相互行為としてほぼ共同作業の様相を呈しています。我々受け手は、いわば意見という磁力をもって作者の物語を間接的に操作する身であり、その結果完成されたものを享受していると言えるでしょう。一例として、P-MODEL平沢進氏は、「80年代のP-MODELは観客が育てたという自負がある」という当時のファンの言葉を事実に近いものとして捉えているようです。*1

そして近年のサブカルチャーにおいて相互行為性は一層露骨なものとなっております。卑近な例でいえば少し前の少年ジャンプ。一部の熱狂的な女性のファンの影響を無視することができず、結果的に少年のための雑誌という点から離れていってしまった。あるいは、時にハーレムアニメと揶揄される、一人の青年主人公に多数の美女が求愛を始めるアニメが今なお隆盛していること。いずれの例にしても、受け手側の”欲望”への作り手側の配慮を強く感じさせるものです。

ルビー・スパークス』では、主人公の肥大化した欲望が上手く通らなくなる様が徐々に、しかし如実に示されます。自分以外の友達を作り、自分を差し置いてバーでその友達と楽しんでいるルビーに嫉妬して「ルビーはカルビンから離れられない」と記入するカルビン。その後書いたとおりにルビーはカルビンの部屋に飛ぶようにして帰ってきますが、その後のルビーの四六時中離れようせず横断歩道で離れ離れになっただけで世界の終わりのように絶望してしまう様を見て、カルビンはこんなはずじゃなかったという顔をする。そのカルビンの残念な心情は、当初のルビーの美しさを目の当たりにした我々に対しても同様に伝わってくるはず。この辺りで我々は、美男美女の幸福な関係を紡ぐと思われた物語の歯車が狂ってきたのを心の奥底で感じます。

そして二人の関係の破綻が決定的となるシーン。カルビンのとった行動は全く褒められたものではなく、幼稚で、相手の心情への配慮がないもの。しかし事態を更に悲劇的にしてしまうのが、そのとおりにルビーが行動してしまうということです。自分の理想の生活を構築するためであったはずの手段が却ってその生活の薄っぺらさを暴露してしまう瞬間がここにある。相手を思い通りにするということが必ずしも幸福に直結しないということは、主人公にとっても観客にとっても一つの気付きであることでしょう。かつて幸福だった関係は、それを生み出したカルビン自らの手によって決別される。

上記の例で示した「世界は全て俺の物」的態度に、私は強い幼児性を感じます。もちろん少年を対象にした創作物だけではなく、それは形を変えて青年対象のものにも表れていて、大多数がその独占的行為を享受していることは否めません。しかしそれでもあれも嫌だこれも嫌だこの態度のこの娘だけがいいんだというカルビン的態度は自意識の狭隘さを感じさせますし、彼は自分の妄想とは異なる現実に対する正面からの認識を拒絶しています。

ここにこの作品の作り手側の意図があるでしょう。自分の思い通りに行ってしまいすぎることにも人間は不満を持ってしまう。それに対して我々は、自分ではない他者の、コントロールできない部分に対して誠実に向き合うことでしか関係を保つことができない。あるいは、ある他者は自分の一部ではない、ということを経験によって重々承知した人間のみが他者と向き合うことができるのだ、というメッセージをカルビンの喪失を通じて我々へ伝えています。むしろ、自分ではコントロールできない他者が存在するということは幸福ですらあるのではないでしょうか。何故ならその感覚をもって逆説的に「自分は一人ではない」という認識を持つことができる可能性があるからです。自分の一部ではない他者がそこには確かに存在するという前提が正常な人間関係を持つためには必要なのではないでしょうか。説教臭くなってしまったかもしれませんが、自意識中心で物事を考えがちな自分のような引き籠りがちな人間にとっては、どこかしらに心にくるものがある作品でした。というかこれ観せたら泣きが入りそうな、大人になりきれてない人間が何人か俺の周りにはいるぞ(笑)!オタクの男が普通の女の子を誘って観るのには丁度良いバランスの作品ではないかと。


ルビー演じるゾーイ・カザンのゆるふわ&奔放さが感じさせるズーイー・デシャネルっぽさといい、恋愛の破局を通じて男が成長するストーリーといいこれまんま『(500)日のサマー』やろ…そっちはジョセフ・ゴードン=レヴィットが草食リア充過ぎてあんまりハマれなかったのですが、今作についてはポール・ダノのオタクっぽさが現代的であったためかかなり親しみをもって観ることができました。でも『リトル・ミス・サンシャイン』の観た後の観客を選ばない爽やかさからすると、女の子を自由自在にするという題材からしてすごく観る人を選んでしまう作品かもしれないとも思いますね。あとこの映画の主演2人は実際にも付き合ってるらしいですね*2。うん、爆発しろ。幸福の可能性は常に開かれているものの、それに見放されているとさらに惨めさを感じる昨今です。

以上カップルだらけの渋谷のパルコで新年早々この映画を観るのは凄い気が引けた私からの新年一発目エントリでした。


ズーイー・デシャネルには僕らのベン・ギバードを傷物にされた恨みがあるのですよ!ゴメン嘘。最近のデスキャブ追い切れてない。去年のサマソニにも行かなかったし。