サム・メンデス監督『スカイフォール』

老兵は死なず、ただ復活するのみ

スカイフォール』、観てまいりました。

007/スカイフォール オリジナル・サウンドトラック

007/スカイフォール オリジナル・サウンドトラック

トルコでMI6(秘密情報部)のハードディスクを追っていたジェームス・ボンドダニエル・クレイグ)。列車の上で犯人を追いつめるも、ボンドをサポートしていた同僚のイヴ(ナオミ・ハリス)の誤射で鉄橋の上から落下してしまう。本国ではボンドは殉職したとして扱われるが、MI6の本部が爆破され6名の死者が出たという知らせを聞き、ボンドはM(ジュディ・デンチ)の目の前に再び現れる。再度007として復帰したボンドは上海に飛び、カジノで出会った女性を通じて黒幕を知る。それは元MI6のシルヴァ(ハビエル・バルデム)で、彼は過去の任務で失敗し拷問を受け、それをMに見捨てられたからと恨んでいるのだった。シルヴァは一度MI6に捕まるも脱走しMを襲撃する。難を逃れたMはボンドとともに最後の地へ向かいシルヴァと対峙しようとする…と言うお話。

とにもかくにも最初の犯人とのおっかけっこで心を持ってかれましたねー!周りの露店の迷惑お構いなしのカーチェイス→あまりに細くて通れるの?と思ってしまう道でのバイク競争→電車上でのバトルという、目まぐるしく変わるシーンの応酬。これがハリウッド映画だといわんばかりの映像は、ビッグバジェット作品の文脈がまだ現代においても健在であることを高らかに宣言しているかのようでした。

その後もMI6の衝撃的な爆破だったり、上海でのシルヴァの手下との格闘の幻想性だったりとカジノの異国性だったりと映像が最近の作品でも屈指の美しさを誇っているのですが、これ撮影してるのがコーエン兄弟の作品でおなじみロジャー・ディーキンスなんですね。私は『オー・ブラザー!』の色濃い風景がとても好きなんですが、今回もこの人に全力を出させてる感じがしててとても良い。小難しいコーエン兄弟の映画のみならず、海外の風光明媚な風景も重要な要素であるボンド映画とも抜群の相性でした。ほんとこの人の撮った作品に外れが無さすぎる…*1

さて、今回のテーマは「伝統と革新」だそうで。恐らくその言葉は今作品全体に流れているのが簡単に読み取れると言いきってもそう大きくは批判されないでしょう。「英雄性を決して忘れはしない」として旧態の組織にこだわりを持ち続けるM、復帰テストで肉体的老化を如実に示すボンド、そして「ペン型爆弾なんか時代遅れさ」と言いコンピューター技術に特化したサポートを行う若手の新Q。新旧二つのイメージが重なりあい、コンフリクトし合う様は、映画史そして現在の007シリーズの立場に近いものです。ボンド役を次々替えて50年の歴史を刻んできたこのシリーズは、人物を超越した精神性が具体的に存在することを感じさせます。エンターテイメント性をその身に集約し、英国紳士としての振る舞いも完璧にこなすボンド。虚構の存在といえども、人々にその存在を求め続けてられてきた彼には、肉体をとっかえひっかえしても具現化してしまう精神印象をどうしても持ってしまいます。*2しかしいつまでもその歴史性に凝り固まった作品ばかり取り続けていても「あーあの作品ね、まだやってたの」という評価になってしまいがち。007もいつそうなってもおかしくないシリーズの筆頭ですが、「ボンドの人間らしさを表現する」ダニエル・クレイグが6代目ボンドをやっている現在の人気は好調のようです。それはひとえに限界に挑戦し続けていることがクオリティの改良につながっていることの幸福な証左でしょう。

今作はかなり『ダークナイト』っぽいという声が多いです。それは,
(1)主人公側の負の遺産(それまでのシリーズの文脈を含む。『スカイフォール』ならそれまで自国のスパイ達を戦地に送り時に死なせてきたMの自意識、『ダークナイト』ならそれまで「正義」を盲目的に信じていたアメコミの歴史。)について正面から取り組んでいる
(2)悪役のアナーキーさ。(今回のハビエル・バルデムもわざと捕まってさらに主人公側を混乱に陥れたりするのは多分ジョーカーの影響だよね…?)
などがあるからでしょう。この要素はそれまでの英国紳士が世界回って女抱いて世界救ってハッピーという単調なアクション路線とは違った、内省的なエンターテイメントであることを示すものです。9.11以降、直感的な単なる懲悪勧善では社会の暗い部分にさらにズブズブはまっていってしまうという構造的毒性を認識するためこの内省性は支持されていると考えていますが、その「重い」印象は、恐らく今回でキャストを大幅に入れ替えることについての誠実な答えからきているものと感じました。自らの存在理由すら揺るがしかねない相手に対峙する緊張感をうまく物語のエンジンに転化しており、自分達が築いてきた過去に向き合った上で新世代にバトンを渡すという意志をしっかり感じるところが今作の一番の素晴らしい所ではないかと思います。


シリーズお決まりのエンドロールでの"James Bond will return"は、次作タイトルこそ無かったものの、シリーズ50周年記念ロゴの下にあったので「次の50周年も戻って来続ける」との意味だったのでしょう。そんな大げさなメッセージも説得力を持ってちゃんと響いてくるような快作でした。


今回の主題歌はAdeleなんですねー。映像も含めあのオープニングは最高でした。”This is the end.”とかいきなり歌い始めたときはメロディがまんまなんでてっきりあの曲かと思いましたが…

*1:で今調べてみたら『TIME』があったので撤回

*2:伊藤計劃の短編『From nothing, with love.』はそのイメージを逆手に取った素晴らしいSF作品でしたね。

バディ・コンシダイン監督『思秋期』

・人生に焦ったり不条理にイラついたりするのは若者だけの特権じゃないぜ

ちょっと遅れてしまいましたが、『思秋期』観てまいりました。

Tyrannosaur [DVD]

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妻に先立たれ一人暮らしをしているジョセフは、常に怒りを抱えて生活をしていた。時に酒場で暴れ、気に入らない店の窓を割り、言うことを聞かない自分の飼い犬を蹴り上げる。そんな彼が襲われケガをしたとき転がりこんだ店にはハンナがいた。彼女は献身的にジョセフを扱うが、そんな彼女も実は夫によるDVに苦しめられていた…というお話。

つまるところこの作品は人間ドラマなわけですが、単なるホンワカ物語にさせない衝撃的なシーンがあり観客である我々にショックを与えます。例えば一番最初のシーンではヤケ酒を飲みどうにもむかっ腹がおさまらないジョセフが描写されますが、そのジョセフは自分が飲み続けていた間ずっと待っていた飼い犬を蹴り上げます。昨今では映画のエンドロールで"No animals were harmed in the making this motion picture."とわざわざ描かれる位動物愛護には気を遣ってますし、物語で犬猫が出れば間違いなくヒロイン級に良い扱いを受けるのは常識なのでこの描写はなかなかにショックでした。それ故にこの物語の切実さを表現できているとも。また、ジョセフの数少ない友人である少年の継父のガラが悪く母親も少年に悪いと思っていながらも強く出れなかったりして少年の心に暗い影を落としているなど展開が重かったりします。

アスペルガー気味のジョセフに対して聖母として配置されるハンナ。何故当初見ず知らずのジョセフを助けるのかは、彼女がキリスト教の敬虔な信者であるという描写で説明されますが、しかし彼女が何故キリスト教を信仰するようになったのかというと彼女が子供を産めない体であるため信仰にすがるようになったという…しかもそれが理由で夫からDVを受けているというこれまた重い展開。酔った夫がソファでハンナに小便をかけるシーンも衝撃的でした。

DV描写で言えば、男と一緒にいたとしてハンナを殴った夫が、次の日には泣いてハンナに許しを請いているところが割とリアルだなーと思いました。例えばこれ日本でもヒモやってるチンピラとその彼女のキャバ嬢のカップルとかに当てはめて考えてみてもすんなりいくのではないでしょうか。暴力一辺倒だけでなく同情も使って相手の心をハックしていく様はうすら寒さすら感じます。そんなDV夫も外面はいい人、というのも相手の逃げ道を塞ぐ恐ろしい手段でした。

その部分がよく出来てる反面、ハンナが殴られている箇所が主に顔、というのがリアリティーから言えばマイナスかなと思います。DVの悩み相談に来る女性であそこまであからさまに顔を殴られている人はいません。何故ならDVがバレたら困るから。感情的になろうとも夫はその箇所に攻撃を加えることがあまりありません。考えてみれば顔にアザを負った女性が道を歩いているのを観たことなど何回もありませんね。

話がそれました。この映画では登場人物のほとんどが老年、それも恵まれた人生を送っているとは言い難い人々です。彼らはこれまでの人生を満足に過ごすことなく、むしろそれまでのツケを払わされているかのような余生を過ごしています。それまでロクに娘の面倒を見てこなかったせいで死の間際でも娘の家族から見放されている主人公の友人にも象徴されていますが、それは立派な”大人”になることなく老年期を迎えてしまった悲哀とイコールであるかもしれません。

賭けに敗けたといっては酒をあおり暴れ、暴力に訴えかける彼らはとても幼稚です。この映画では、老境に差し掛かった人物が自分の上手くいかないことがあるとイライラするのはそれまで社会の不条理にぶち当たった経験が浅いから、と主張しているように見えました。それまでの経験があればうまくやり過ごす対処方法を見出しているなりしているはずですがしかし彼らはそれも持たない。この作品はこの年齢までついに満たされることのなかった人々がその焦燥感に追われる姿にスポットを当てているといえるでしょう。

日本でもこんな本が一時期話題になりましたね。

暴走老人! (文春文庫)

暴走老人! (文春文庫)

高齢化真っ最中の日本ですが、高齢層が増加するにつれて老人と呼ばれる人々にも様々な人生を歩む人が出てくるのは必然であり、それまで当たり前とされていた人間の成熟ルートを通らずに年齢を重ねてしまう人が出てくるのかもしれません。かつては「小さな大人」として共同体の一員として活動していた人々が、「子ども」として扱われるようになったように、「老人」の概念も変化してきているのを認識しなくてはならないのかもしれませんね。


上述の主人公の友人の葬式での一幕は彼らに訪れた一瞬の青春ともいうべき輝かしさに満ちていて感動的でした。ジョセフとハンナについては終盤衝撃的な結末が待っていますが、それを前にして2人が辿る道は、それまでの人生にケリをつけるかのように出された結論ですし、主人公にとってはやっとやってきた人間的成熟ともいうべきものです。そこに至るまでの、焦り、迷い、打ちひしがれて成長する老人達の人生を追体験できる最高の映画でした。



この映画に一番合う曲だと思います。ニールヤングは若い時ほど人生全体を見通すような曲を作っててすごいなーと思う昨今。

三池崇史監督『悪の教典』

・学校にやってきた不審者を撃退したい、とか妄想しててすいませんでした。

三池崇史監督『悪の教典』観てきました。

久々に職場の同僚と映画館に行ってきたのですが、その時「何かちょっと映画でも観ようぜ」というノリで行ってしまったせいで観終わった後「軽い気持ちで観ていい映画じゃなかった…」と小心者の私は深く心に爪痕を残して映画館を後にすることになりました。近年のメンチサイドホラーとしては出色の出来ですし、「とりあえず映像化の話があれば撮る」三池監督久々の本領発揮の作品になったのではないでしょうか。ちなみに原作未読です。

英語教師であり他の教職員からその能力を信頼され生徒からも人望が厚いハスミンこと蓮実誠司。しかしその正体は、幼い頃に両親を殺害した経歴を持つほど良心に欠けた生来のサイコパス(精神病質者)であり、自分の欲望のためなら平気で殺人を行う人間だった。教師を続ける傍らで学園を自分の帝国にしようと同僚や生徒を手駒にし、時に殺す蓮実だったが、学園祭の日に実行した犯行でミスを犯してしまう。その隠蔽のために当日学園祭のため教室に残っていたクラスの全員を殺害する決意をする――というお話。

ともかく今回、物語のプロット上の欠陥が多数あることは否めないでしょう。パッと思いつく限りでも、

  • 心理学について精通しているはずの主人公が、自分の子どもがいじめを受けていると思い感情的になっているモンスターペアレンツに対して「いじめの事実は確認できない」と正論をストレートに返してしまい相手を逆上させてしまっている。クレーマー対応として、相手の感情を鎮めるためにはひとまず「相手の論を受け入れる」のが一般的なのでは。
  • 両親の殺害の際に、自分を刺して「暴漢に襲われた」と演出してたが、ナイフとかによる刺し傷って自分で刺したものか他人に刺されたものか調べればわかるってブラックジャック先生は言ってたんだけど…
  • そもそもアメリカだろうと犯罪者とか(少なくとも表面上は)でもないのに権力振りかざしてブラックリスト入りさせて入国禁止とかできんの?
  • サイコパスの一言で終了といえば終了だけど、それでも生徒を全員殺すことを決意する流れが唐突すぎる。
  • ゲーム脳の俺が言うのもなんですが、弾丸無限過ぎ。
  • というかそもそも人殺し過ぎじゃね。もう殺さない方が手っ取り早いと感じるケースもあった。あんだけの殺人を犯しておいて出所は無理では。脱獄?

以上の点が観ていて気になりました。この話自体現実離れしたもの(ですよね?)なので恐らく映像化に際して無理くり辻褄を合わせた部分がかなりあるのではと推測してしまいます。

しかしそれでも面白かった!と言わせるだけの魅力がある映画です。この映画の一番素晴らしい所は、無力な人間をそのまま無力なものとして描いていることだと思います。近年の映画ではマーク・ザッカ―バーグよろしくナードっぽいダメ人間が主人公として設定されることがブームっちゃあブームであり、その主人公が結局嫌みなジョックスどもを打ち負かして人間的に成長する、という筋の映画がスタンダードになっています。つまりそれはどんなダメ人間でも価値ある人生を送ることが可能だというメッセージ。普段現実世界で蔑ろにされがちな私たちの生活を持ち上げてくれるものです。しかしこの映画では一人の天才による不条理物語のため私たちの胸をすくような体験をさせることが一切ない。前半の学園生活の描写はそれこそ『桐島、部活辞めるってよ』での繊細さに通ずるものがあり、中高生時代がいかにも壊れやすい薄氷の上に成り立っているというエッセンスを感じさせるものです。そしてその後慎重に構築した世界を後半一気に壊しにかかるあたり三池監督らしいなーとも思うのですが、その殺されっぷりに監督の容赦がない。いくら絶叫しようとも、銃を手にしたサイコパスには声は届かず、知性でも体力でも圧倒されるともう勝ち目がない。生徒の内面があまり描かれないのはむしろその無力さを際立たせているためプラスであると感じました。

この映画の主人公の存在が示すもの、それは他者を支配したがる傾向にある人間の性質ではないでしょうか。共感能力が低い、とはサイコパスの特徴の一つですが、人が権力者・支配層となった時、一人ひとりの心情を慮ってはいられないということがあります。極端な例では戦争での徴兵なんかもそうですが、もっと身近で言えば身内をリストラするとか。それまで組織に尽くしてきた人間を簡単に捻り潰しその後の人生を顧みないということが割と日常的に行われているあたり、私達の生活の不安定さを感じさせます。しかしそんな仕打ちを受ける可能性があろうとも組織に属さざるを得ない一般人。いかに大部分の人生を力のある者の手のひらで転がされているか痛感せざるをえません。

この映画で右往左往する生徒たちはまさしく人生の大部分を他人に預けている私達のような存在です。そのことを考えると、浮世離れしたこの物語も不思議なリアリティを持って観客に迫ってきます。いかに私たちの生が力を持った他者に握られているか。支配者はシステムを制定し・活用し・そして時には捻じ曲げ、裏切ってまで人々の生を管理しようとする。主人公の悪意は戯画的ではありますが、しかし多かれ少なかれ組織では似たようなことは行われていると言っていいでしょう。そしてその営みが少なくない犠牲者を生むことはこの社会で当然の結果としてあります。圧倒的な力を持った存在から何とか生き延びようと右往左往する生徒達の姿に社会での私達の姿に相似するものを見出した時、この作品の真の恐ろしさが伝わってくるのではないでしょうか。


あと最後に。二階堂ふみマジ天使!

ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)

ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)

この映画のコメントを一番聞いてみたい人と言われて思いついたのが沙村広明。彼が屋上手前での絶叫シーンを観たらなんと言うか。でも正直言ってこの漫画は二度と読みたくありませんがね…

ベン・アフレック監督『アルゴ』

・嘘を付け。もっともっと嘘を付け。世界を救うために。

ベン・アフレック主演・監督作品『アルゴ』観てまいりました。

アルゴブルーレイ&DVD (2枚組)(初回限定版) [Blu-ray]

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1979年11月4日、イランの首都テヘランアメリカの傀儡政権となっていた政府に対する暴動が起こり、アメリカ大使館の職員50人が人質として拉致された。しかし大使館が占拠される前に6名が脱出しカナダ大使の公邸に逃げ込んだ。アメリカ当局が7彼らの帰還について手をこまねいている中、CIAの人質の国外脱出作戦のプロであるジョン・メンデス(ベン・アフレック)が、現地の6名を「映画撮影のスタッフ」として連れ出し、イラン警察の目を盗んで空港まで送り届けてアメリカへと逃がす作戦を提案、自ら現地へ単身で乗り込み作戦を実行する。というお話。

この映画では全編を通じて古いフィルムが使用され、また1979年当時のアメリカやイランの世界情勢を色濃く反映しているため、作品全体に1979年当時のリアリティを持たせることに成功しています。古いパソコンやニュース映像を流すテレビ、果てはレンズの大きいメガネをかけるなどの大使館職員の服装やあたり構わず煙草をふかす人物の姿など、細かい所で昔のアメリカっぽさを出しているため、映画の背景がしっかり一貫していて観ている側に安心感を与えてくれます。ツェッペリンストーンズやヴァンヘイレンなど骨太なロックを挟んで時代の空気感を出しているのも好感の持てるところ。

この映画では冒頭で”based on true story.”と流れるように、イランでの事件に対して実際に行われた作戦を基に描かれています。事実、キャラクター達は作戦立案に協力する映画人たちを始めほぼ実在の人物ですし、最後に流れてくる本物の写真は見るからにこの映画のキャラクターにそっくりで驚くほどです。

しかしこの映画についてちょっと調べてみますと、歴史上の事実との相違、というより物語の都合上脚色した部分がかなりあるようです。本国アメリカでも評判・興行収入ともに上々のようで、この映画についても意見が活発にやり取りされているようであるため、ちょっと英語版のwikipediaを覗いただけでも、事実に反する項目がかなりの量指摘されています。以下気になったものを羅列。

  • 革命のきっかけとなったシャラビの経歴について、圧力により選挙で当選したとのナレーションがあるが、実際には他の国同様のやり方の選挙で当選した。
  • カナダの功績が縮小されている。カナダ大使の妻は3人分のチケットを購入するなどしていたし、大使は実際には6名に(なるべく早期に)出て行くよう伝えたことはない。
  • イギリスとニュージーランドの役割が縮小されている。作品中では6名の人質を両国は「追い払った」としているが、実際には6名を最初に匿ったのはイギリス(大使?)であったし、6名以外のアメリカ人にも手助けをしていたなど。
  • 作戦に用いる脚本について、映画では多くの脚本の中から『アルゴ』と名付けられた脚本を見つけ採用するが、実際には『Lord of light(光の君主?)』という小説を基にし後にこの名前に直した。
  • 映画では脱出した大使館員6名全員がカナダ大使の公邸にゲストとして匿われていたが、実際に公邸にいたのは2名であり、残り4名は別の外交員宅に滞在していた。
  • 劇中当時を象徴するものとして登場する崩れかかった"HOLLYWOOD"の看板は、1978年には既に修復されている。

当時の世界情勢について無知な私が観ても、空港内で座席のチェックで引っかかり立ち往生していた主人公達に対して大統領の判断がギリギリで間に合ってチェックが通ったり、離陸直前の飛行機に向かってパトカーが直進するシーンを見せられ「いやそれはねーだろw」と思ってしまうぐらいでしたのでそのあたりの脚色はあるかな、とは思っていたのですが、それでもこの映画に関しては創作の部分が予想以上に多かったということになります。

この映画を観る前に『リンカーン/秘密の書』なる、リンカーン大統領が実はヴァンパイアハンターだった!という「いやそんな『おじさんは、ドラゴンだったのです!』みたいなノリで言われても困るしそもそもいつまで新発売なんだよ」*1としか言えない作品を鑑賞していたのですが、案の定設定をうまく消化しきれておらず、観客としてどういう態度でみればいいかわからない作品となっておりました。しかし同じように映画上の嘘が多い作品でも本作品には好感を持たずにはいられません。

それはひとえに、ミッションの遂行のためにプレッシャーに耐えつつも任務をこなす寡黙な主人公に代表される緊張感を大事にした誠実な姿勢がこの作品から滲み出ていると感じるからです。記者会見にて行われる偽脚本の読み合わせとイランでの事件の状況がシンクロしていて、何とも言えない顔をしている主人公の心境がセリフを通じて伝わってくるシーン(白眉!)がありますが、それを観て「そんなのあるわけねーだろ」と思うより先に「ああ、切ね―なぁ」、と思ってしまいます。そしてそれは最初の方の、大使館に押しかけ暴力的に振る舞う群衆やクレーンで吊るされた白人のシーンから来る緊張感が生きていてから、こういうこともあるかもな、と思わされるのだと思います。地道な表現の積み重ねが生きに生きて最後の脱出まで雪崩れこむまで目が離せない作品となったのでしょう。国際政治のようになかなかうまく行かない現実から目をそらさずに苦悩している主人公の姿は、そのまま私達観客を何とかして楽しませようとする制作陣の姿と重なるものです。そしていくら事実を基に制作しているといえども映画である以上創作であることに変わりはなく、要するに映画の製作自体が規模のでかい嘘なわけです。時に真実でないことを私達は求める、そしてそれには文法(やり方)があるのだ、ということを再確認させられた作品でした。

「それが事実がどうかはどうでもいい。大事なのは、人は嘘をつくとき真剣な顔をするということだ。」誰の言葉かは忘れましたが、昔聞いたそんな言葉を思い出させてくれる映画でした。上映劇場数は少ないようですが、最近にしては珍しくアメリカの公開時期と同期している作品ですので、世界の流れを同時体験する機会を増やすためにもなるべく多くの方に観て欲しいですね。

*1:リンクしようと思ったけど動画が見つからない

ギャレス・エヴァンス監督『ザ・レイド』

・神に誓ってガチです

ザ・レイド』観てまいりました。

麻薬王がならず者たちを住まわせて君臨する30階建てのビル。そこに20人のエリートSWAT隊員達が作戦のもと突入する。潜入には成功したものの、途中で発見されてしまいビルの中で麻薬王の手下達に囲まれてしまう。銃撃戦によって隊員達が次々と命を落としていく中、新人隊員のラマ(イコ・ウワイス)らの決死行が始まる…というお話。

かなり話題になっている本作品ですが、上映する映画館が全国で十数ちょい…これはスルーかなと思っていたらなんとシネプレックスつくばが上映劇場にあるではありませんか(泣)!シネプレックスつくばは『哀しき獣』や『ハンナ』など地味にミニシアター系の作品を引っ張ってきてくれるし、現在も『最強のふたり』を上映しつつ『希望の国』の公開も控えているというありがたい場所なのですね。この映画不振の中頑張っていただいてる姿勢には頭があがりません。

さてこの映画ですが…とにかくスゴイとしかいいようがない!最初に麻薬王による処刑シーンが流れるのですが、その演出がかなりショッキングなものだったので最初にグイっと引っ張られてしまいました。そしてその後の、SWATチームのビル突入→手下に発見され包囲される→苛烈な銃撃戦の流れの流暢さといったら。次のシーンへ移る際の手際良さが際立っていたため緊張感を持続することに成功していましたね。また、相手が応援を要請した隣のビルのスナイパーの存在も◎。外の見張りを排除(わめき声を出させて仲間を炙り出させるためにわざと半殺し!)した上で軍隊を孤立させ、下手に窓辺に出た隊員をすぐに瞬殺というコンボを決めるという条件が、軍隊が味わうことになる絶望感をさらに激烈なものにしています。

ラマの機転によりガス爆発を起こしてあらかたの敵を吹っ飛ばしてからは銃撃よりも肉弾戦がメインに。しかしまぁそれもスゴイ。なんてったって基本的に手が基本的に見えない(笑)そしてシラットという拳法をメインにした肉弾戦にて叩き込まれる殴打を観ていると、カンフル剤を打たれたかの如くこちらも興奮してしまいます…!意外とカメラワークがダサさギリギリのところで魅力的だったのも印象深かったですね。

そして特筆すべきは敵の最強幹部役のマッド・ドッグですよ!体格ではるかに優位に立っていた松尾スズキ似の隊長を、手数・勢いで完全にねじ伏せる圧倒的強さで殺害した時、「ああこいつはもうやばい人だ」という絶望感が。そして最後のラストバトルはマッドドッグの一番のシーンでしたね。というか首に蛍光灯刺さったまま何分間か戦っちゃう人間がいちゃダメだろ(笑)!でもこの人ならあり得るかも、という怪物性を十二分に感じることができたんだよなぁ。

アクションについてとやかく言えるほど知識があるわけではないですが、私の経験で言えば初めて『酔拳2』を観たときの興奮が甦ってくるものでした。最近の映画で言うと、突出したバイオレンス性では『チェイサー』、アクションの魅力としては『イップ・マン』シリーズに匹敵していると思いますので、どちらかのファンなら見てほしい!とにかく、「あー最近心臓わし掴みにされてないなー」という人にオススメ。意外と劇場では女子の姿も見ましたので、吊り橋効果狙いでのカップル鑑賞もいいかもしれません。結果に責任は持てませんが。


最後に。勢いで上記のキャッチコピーを書いたはいいものの、どうやらこの映画ではCGが使われているようですし、主演のイコ・ウワイスを始め各俳優にスタントダブルが配置されていたようです。でもそんなことはどうでもいいんだよ!最高だ!


アメリカ版の音楽はリンキン・パークのマイク・シノダ。イントロだけ聴くと結構音響系かな?と勘違いしがちですが、しっかりミクスチャーしてます。トレント・レズナーの感じと被っても困るのでこれはこれでいいんじゃないでしょうか。というか悪くない。

スティーヴ・マックイーン監督『シェイム』

・私たちは常に、満たされ損ねている。

SHAME -シェイム- スペシャル・エディション [DVD]

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この何週間は,この映画を観たいがために生きてきたようなものでした。あまり面白くないとの意見も多数拝見しますが,私は今年度ベスト級の傑作だと思います。

ニューヨークでエリートサラリーマンとして成功を収めるブランドン(ミヒャエル・ファスベンダー)。しかし職場では理性的な行動をとっている彼のプライべートライフは,道端での行きずりの女性との性行為やアダルト動画の収集,コールガールを呼ぶなどのまさしくセックス中毒と呼ぶにふさわしいものであった。1人暮らしのマンションで二重生活を行いなんとか精神的なバランスのとれた生活を過ごしていたブランドンだったが,ある日彼の妹であるシシ―(キャリー・マリガン)がマンションに転がり込んでくるようになってから彼の生活は一変する。女性と関係を持ってもあくまでドライであり続けようとするブランドンとは対照的に,相手に深く恋愛的な依存を繰り返すシシ―。彼らは各々の形で愛を求めながらも,やがて破滅的な道を辿っていく…という話。

本作品は,その生々しい性描写もさることながら,映画全体をとおした空気感や色使いに特徴があると感じました。外見から見れば勝ち組サラリーマンで女にも不自由しないという,なにもかも満たされているブランドンが,しかしながら本当に欲しいものが満たされず空虚であることが,生活感に溢れたセックス描写をとおして伝わってきます。また,全体をとおして画が青みががっているのですが,そちらも静的な雰囲気づくりに一役買っており,劇的ではないにしろ緩やかな陥穽ともいうべき欲望の地獄を憂鬱とともに都会的に描くことに成功していたと思います。

ドライなセックスに溺れる日々を過ごすブランドン。そのセックスは時に情熱的になりこそすれ,しかし満たされることはない。職場ではナイスガイを演じる彼の顔も,プライベートでは常に空虚なものです。彼に付きまとうのは、決して誰とも分かり合えないという孤独。同じニューヨークを舞台にし,同じような題材を取り扱った『タクシードライバー』との連続性を感じました。*1

他媒体で多く言及がなされていることですが,この映画ではその内容の中で明言はされていないものの,ブランドンとシシ―の兄妹が
(1)兄妹にしては親密すぎる描写(シシ―が裸を見られても気にしない,ソファーで肩を寄せ合う二人など)
(2)「私たちは悪い人間じゃない。ただ生まれてくる場所が悪かっただけ」というシシーの台詞
を根拠に虐待を受けていたのではないかという説があります。そしてその虐待の中で過ごす過程で2人は関係を持ってしまったとも。私自身も映画を観る中ではそういう風に観るとすんなりいくと思いました。

ありのままの自分を受け入れてくれるといった理想的な愛情形態を追い求めること,引いては普段の生活では現れてこない「本当の自分」なるものの探求をすること。そのような行為は,言語で「自分」のことを説明する行為に近い。そもそも他者との意思疎通のツールとして生まれた言語は,人間が動物から進化する過程で得たもので,それ自体が人間の自己意識を規定しています。言語が表すものについて,私たちはそれが自らの経験から独立したものであると言うことができません。そのため,言語によって語られる「私」は,どこまで行っても今この瞬間の「私」,それを経験する主体としての「私」を説明しえず,自己言及なるものの不完全性が証明されてしまいます。

人間は,成人ともなると人間の精神の原光景ともいうべき子供時代に立ち返ることはもはやできない存在です。自己意識が完全にすり替わっているため,私たちが自己同一性の根拠として信頼している子供時代は過去のものであり,それは成人となった今となっては幻想とともに信じられるものでしかありません。逆の例として,子供時代を不遇なものとして過ごし「あの頃ああしていたら,今の自分の生活はもっと素晴らしいものになっていたのに」という想像に悩まされる人は,その「ありえたはずの人生」を繰り返しイメージすることで自分の生きる根拠を取り戻しているとも言えます。

ブランドンとシシ―もそうで,これはいわば「取り戻し」の行動をとろうとしてに逸脱してしまう大人達の物語です。巷で皆が口々に話題にしている(そして私も患っている)コミュニケーション障害とは,他人との距離の取り方が分からず萎縮してしまう症状のことを指すものだと思いますが,この映画では真逆,要するに他者に多くを求めすぎてしまうためにうまく行かない人々を描いています。愛人に「別れたくない」と泣き付いて電話をするシシ―はそのとおりですが,ブランドンも過剰な欲求を持て余し(量的に)異常な性行為を行ってしまう。肥大化する欲求とそれに追いつかない感情。そのストレスはシシ―というきっかけによってより過大化されますが,そもそもブランドンが抱えていたのはいずれ爆発する不発弾のようなものだったのではないでしょうか。

自分にとっての理想の関係を追い求めること,それ自体に決して悪い意味はありませんが,「愛に溢れた結婚」みたいなものをある種のゴールとして設定してしまうと,その理想像に追いつけなかったり,手に入れたとしても「こんなはずではなかった」と現実とのズレがあからさまになってきてしまうものです。しかしそれでも人はあるはずだった原光景を思い描かずにはいられない。例えばそれはこの映画の主人公達であるし,立派な社会人になり普通に社会に溶け込もうとして,逆に何もかもが挙動不審になっていたりする私であったりするはず。理想と現実の間でもがく人間の姿はとても滑稽ではありますが,信頼して話をすることができる人間が殆どいない世界で原因は異なれども同じように空虚感に苛まれている人間がいる,という映画を作ってくれる人がいるというだけで嬉しいものです。

ラスト,自分の分身ともいうべきシシ―のとった行動に心を完全に乱されてしまうブランドン。ヤケになって娼婦と乱れたセックスを行うもその顔は苦悶に満ちており,雨の中のランニングでは苦しみと悲しみに満ちた表情をあられもなくする。欲望を処理し続けた代償として焼け爛れていく心。何かしら満たされない部分があって苦しんでいる人間には,その心境が伝わるはず。人々は,一瞬の快楽でごまかすことはできても,自分の心境を理解されないという地獄の上に生きているもので,それは今後も続く。愛に見放された人々は,例え拒絶反応が出てすらもそれを追い求めなければならない,永遠に満たされない神経症のような人生を歩まなければならないのだろうか。


”身体が心を支配するのか,それとも心が身体を支配するのか?””私は未だに病気なのか?”

ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

*1:というか黄色いタクシーが何回も出てきたんだけどあれってやっぱり示唆だったのかなー,と思ったらニューヨークのタクシーって全部ああなんですか。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%96_%28%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%29 知らなかった。

西川美和監督『夢売るふたり』

・誰が最初にエデンのリンゴをかじるのか?
西川美和監督『夢売るふたり』観てまいりました。

居酒屋を営む夫婦が,ある日火事に遭ってしまい職場である居酒屋を全焼させてしまう。夫婦は再度居酒屋を経営しようとバイトに精を出すがなかなかうまくいかない。そんな中夫(阿部サダヲ)が駅で出会った店の元常連と一夜を共にした末,彼女から大金を得ることに成功する。その事実はすぐに妻の里子(松たか子)の知るところとなるが,里子はそんな夫に素質を見出し,女性たちを対象とした結婚詐欺を行うよう強制する…というお話。

面白かった。外見がずば抜けて良いわけではないものの女性を安心させるルックスで落ち込んでいる時には優しく接する人間で,それでいて職人気質な厳しさを持つという,阿部サダヲの演じる夫が次々と女の心を射止め騙していく。という話の展開にうーんそうなのかなー?と思わなくもないのですが、これに関してはコメディと見るべきでしょう。このあたりに関しては割とポンポン話が進み、加えて街頭のシーンでわざと宗教演説の音声をキャラクターの後ろに被せる悪趣味な演出をするあたりに,園子温作品のコメディのやり方にかなり近いものを感じました。園子温監督といえばイコール女性蔑視なわけですが,この作品に関しても彼のもの同様女性が私簡単よとばかりにコロッと落ちてたりするのでかなり人物描写に安っぽさを感じます。ただこれ創ったのが女性監督というね…このとおりに行動すればモテるんだろうか?そうだったら行動するぞホントに。

映画全体を通して画の美しさが目立ちました。銀杏並木の通り道や阿部サダヲが坂道を自転車で下ってくるシーンの映し方なんかは物語の筋を邪魔しない程度に我々観客の目を引き,日常生活のふとした美しさを射影するかのように陶酔を呼び起こします。何でもカメラマンの方が有名な方だそうですが,個人的には昨年アカデミー外国語賞を受賞した傑作『未来を生きる君たちへ』を思い出しました。あのアフリカの雄大な自然やデンマークの港町の風景描写の仕方に今作品との近似を感じましたが,スザンネ・ビア及び西川美和両監督が同じ感性をしている,というのは同じ女性監督といえども言いすぎでしょうか。

さて,コメディ色も強いこの作品ですが,この物語で描かれているのは本来親密であるべき夫婦という間柄でも起こりうる人間関係の破綻です。
最初の居酒屋を経営していた頃の里子はまるで絵に描いたような良妻です。繁盛している居酒屋を甲斐甲斐しく切り盛りし,職人である夫を支え,それでいて家では夫の精神的支柱となることも欠かさない。居酒屋を消失した後もアルバイトをするなどして落ち込む夫を支えますが、夫の浮気を知った途端豹変し,夫に結婚詐欺を行うよう迫るようになる。ここが夫婦間に亀裂が走った瞬間なわけですが,その後の松たか子の行動ぶりを見るに,もしかして彼女にとって「夫を支える自分」であることはそのまま自らのアイデンティティにとって不可欠な要素であったのではないでしょうか。経済的に追い詰められても決して折れることのなかった彼女の心が,夫の裏切りを境にポキっと折れてしまった瞬間がここにはあります。また,詐欺を夫へ指南するやり方は,恐らくそれまで里子が夫について魅力を感じた経験を基にしたものなのでしょう。最初の浮気の際に夫に「死んでしまえば良かったとか相手に愚痴った?」等風呂場で詰問するシーンがありますが,その質問が全くもってその通りだった。つまり浮気相手が夫に対して何故好意を持ってしまったのかを完全に把握してしまったのです。

加えて考察してみたいのが,里子が子どもが産めない体であるという可能性です。夫婦が料亭を抜け出て次の居酒屋の雇われ店長を始めた際に里子が始める手法が,子宮がんで子供を産めなくない体になってしまい,さらに手術費用が必要だと相手に迫るというもの。これが初めて出てくるのが、夜まで作業をしていた里子のパソコンの上に子宮がん関係の本が置いてあり,夜まで知識を詰め込んでいたと思われるシーンでその後実際に里子が詐欺相手にがんを告白する流れになるわけですが,些か展開が急な印象を受けましたし,もっと別の効率がいい方法があるのでは?と思いました。同情を引くためだったらほかの馴染み深い病気でもいいし,そもそも里子自体が出てくる必要性も,そのリスクを顧みてもあんまりないんじゃないか…?と。また,この映画のサービスシーンともされる松たか子マスターベーションシーンですが,彼女の性欲が突出して暴走しているイメージを受けました。そこで考えられるのが,シーンが唐突なのは,実際に里子が子どもを産めない体であることをを示唆するシーンがあり,それを編集上カットしたためこのような形になったのではないかということ。そうすると,何故里子が夫に執拗に結婚詐欺をするよう強制し,再度居酒屋を経営するという目標を頑ななまでに押し通すのかが明確になってきます。つまり,夫婦にとって子を産み育てるという究極の目標を取り上げられてしまった里子が,そのエネルギーを他の目標の達成に向けているということです。異常なまでの居酒屋及び結婚詐欺への執着を行うことで,ある種自らのアイデンティティを守っているともいえるでしょう。

ここまで思い当った時に思い出した文献が一つ。荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』。この本は,渋谷のいわゆる「イベサー」に慶大時代在籍し,その後大学院で社会学を研究するようになった著者の手によるもの。自らの経験を基に書き上げた修士論文が基になっています。以下はそのサークルの実態を説明した部分で,「イベサー」における幹部メンバーと,イベントのチケットを売りさばく要員である「パー券要員」の力関係について言及している一節です。

サークル運営についてはさほど大きな貢献をせず,評価されるほどの肩書もないパー券要員だが,彼らの支払う納金や集客活動は必要不可欠なものである。そのため幹部は,パー券要員が日頃から脱退しないように日から努力を怠らない。頻繁に飲みに誘い,異性を紹介する,揉め事が起こった際には面倒を見るなど,随時恩を売っておく。そのため,彼らパー券要員のことを「客といっしょ」と表現する幹部メンバーもいる。

イベサー運営に関して,幹部とパー券要員は友情でつながっていると(建前上は)主張しますが,実際は金のためのシビアな関係がそこにはある。もちろん完全にビジネスとして割り切っている訳ではないものの,時に大学生には大きすぎる負担を強いるサークル運営に際してはドライな感覚を持っていなければならないようです。しかしながら一方で,最後までサークル運営に関わった場合は,友人として今後とも付き合っていくのもありがちなパターンとのこと。

この映画では,夫婦生活が一度破綻した後の展開が面白いところとなるのですが,そこでの夫婦の描写はある種一定の分業体制として描かれています。一度信頼関係を失ったふたりにとってもはやそれ以前には戻るべくもなく,強制する側とされる側の区分ができてしまっている。里子と夫との関係は主従関係となるのですが,一方でそれ以前の仲睦まじい関係も垣間見える。要するに,ふたりの関係は倒錯しながら微妙な力関係によってこじれていく。里子は,一度夫に「お前が憎いのは俺なんじゃないか」と詰め寄られた際,どう見ても自らの本心を隠しているようなわざとらしいリアクションでごまかす。それはふたりの相互理解を拒む行為であり,自分を荒涼とした心情に追い込むものです。元の自然な関係を拒絶したふたりが辿り着く結末はどうなるのか?というダイナミズムが今作最大の見所だと思います。

居酒屋を焼き尽くす炎を見上げるふたりの姿は,今思えば,さしずめエデンを追放されたふたりのようにも見える。リンゴを口にしたから追い出されたのではなく,エデンを失ったからこそリンゴをかじって何かを背負い,自らを形作るようにしか生きていけない人間もいるということなのかもしれませんね。