西川美和監督『夢売るふたり』

・誰が最初にエデンのリンゴをかじるのか?
西川美和監督『夢売るふたり』観てまいりました。

居酒屋を営む夫婦が,ある日火事に遭ってしまい職場である居酒屋を全焼させてしまう。夫婦は再度居酒屋を経営しようとバイトに精を出すがなかなかうまくいかない。そんな中夫(阿部サダヲ)が駅で出会った店の元常連と一夜を共にした末,彼女から大金を得ることに成功する。その事実はすぐに妻の里子(松たか子)の知るところとなるが,里子はそんな夫に素質を見出し,女性たちを対象とした結婚詐欺を行うよう強制する…というお話。

面白かった。外見がずば抜けて良いわけではないものの女性を安心させるルックスで落ち込んでいる時には優しく接する人間で,それでいて職人気質な厳しさを持つという,阿部サダヲの演じる夫が次々と女の心を射止め騙していく。という話の展開にうーんそうなのかなー?と思わなくもないのですが、これに関してはコメディと見るべきでしょう。このあたりに関しては割とポンポン話が進み、加えて街頭のシーンでわざと宗教演説の音声をキャラクターの後ろに被せる悪趣味な演出をするあたりに,園子温作品のコメディのやり方にかなり近いものを感じました。園子温監督といえばイコール女性蔑視なわけですが,この作品に関しても彼のもの同様女性が私簡単よとばかりにコロッと落ちてたりするのでかなり人物描写に安っぽさを感じます。ただこれ創ったのが女性監督というね…このとおりに行動すればモテるんだろうか?そうだったら行動するぞホントに。

映画全体を通して画の美しさが目立ちました。銀杏並木の通り道や阿部サダヲが坂道を自転車で下ってくるシーンの映し方なんかは物語の筋を邪魔しない程度に我々観客の目を引き,日常生活のふとした美しさを射影するかのように陶酔を呼び起こします。何でもカメラマンの方が有名な方だそうですが,個人的には昨年アカデミー外国語賞を受賞した傑作『未来を生きる君たちへ』を思い出しました。あのアフリカの雄大な自然やデンマークの港町の風景描写の仕方に今作品との近似を感じましたが,スザンネ・ビア及び西川美和両監督が同じ感性をしている,というのは同じ女性監督といえども言いすぎでしょうか。

さて,コメディ色も強いこの作品ですが,この物語で描かれているのは本来親密であるべき夫婦という間柄でも起こりうる人間関係の破綻です。
最初の居酒屋を経営していた頃の里子はまるで絵に描いたような良妻です。繁盛している居酒屋を甲斐甲斐しく切り盛りし,職人である夫を支え,それでいて家では夫の精神的支柱となることも欠かさない。居酒屋を消失した後もアルバイトをするなどして落ち込む夫を支えますが、夫の浮気を知った途端豹変し,夫に結婚詐欺を行うよう迫るようになる。ここが夫婦間に亀裂が走った瞬間なわけですが,その後の松たか子の行動ぶりを見るに,もしかして彼女にとって「夫を支える自分」であることはそのまま自らのアイデンティティにとって不可欠な要素であったのではないでしょうか。経済的に追い詰められても決して折れることのなかった彼女の心が,夫の裏切りを境にポキっと折れてしまった瞬間がここにはあります。また,詐欺を夫へ指南するやり方は,恐らくそれまで里子が夫について魅力を感じた経験を基にしたものなのでしょう。最初の浮気の際に夫に「死んでしまえば良かったとか相手に愚痴った?」等風呂場で詰問するシーンがありますが,その質問が全くもってその通りだった。つまり浮気相手が夫に対して何故好意を持ってしまったのかを完全に把握してしまったのです。

加えて考察してみたいのが,里子が子どもが産めない体であるという可能性です。夫婦が料亭を抜け出て次の居酒屋の雇われ店長を始めた際に里子が始める手法が,子宮がんで子供を産めなくない体になってしまい,さらに手術費用が必要だと相手に迫るというもの。これが初めて出てくるのが、夜まで作業をしていた里子のパソコンの上に子宮がん関係の本が置いてあり,夜まで知識を詰め込んでいたと思われるシーンでその後実際に里子が詐欺相手にがんを告白する流れになるわけですが,些か展開が急な印象を受けましたし,もっと別の効率がいい方法があるのでは?と思いました。同情を引くためだったらほかの馴染み深い病気でもいいし,そもそも里子自体が出てくる必要性も,そのリスクを顧みてもあんまりないんじゃないか…?と。また,この映画のサービスシーンともされる松たか子マスターベーションシーンですが,彼女の性欲が突出して暴走しているイメージを受けました。そこで考えられるのが,シーンが唐突なのは,実際に里子が子どもを産めない体であることをを示唆するシーンがあり,それを編集上カットしたためこのような形になったのではないかということ。そうすると,何故里子が夫に執拗に結婚詐欺をするよう強制し,再度居酒屋を経営するという目標を頑ななまでに押し通すのかが明確になってきます。つまり,夫婦にとって子を産み育てるという究極の目標を取り上げられてしまった里子が,そのエネルギーを他の目標の達成に向けているということです。異常なまでの居酒屋及び結婚詐欺への執着を行うことで,ある種自らのアイデンティティを守っているともいえるでしょう。

ここまで思い当った時に思い出した文献が一つ。荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』。この本は,渋谷のいわゆる「イベサー」に慶大時代在籍し,その後大学院で社会学を研究するようになった著者の手によるもの。自らの経験を基に書き上げた修士論文が基になっています。以下はそのサークルの実態を説明した部分で,「イベサー」における幹部メンバーと,イベントのチケットを売りさばく要員である「パー券要員」の力関係について言及している一節です。

サークル運営についてはさほど大きな貢献をせず,評価されるほどの肩書もないパー券要員だが,彼らの支払う納金や集客活動は必要不可欠なものである。そのため幹部は,パー券要員が日頃から脱退しないように日から努力を怠らない。頻繁に飲みに誘い,異性を紹介する,揉め事が起こった際には面倒を見るなど,随時恩を売っておく。そのため,彼らパー券要員のことを「客といっしょ」と表現する幹部メンバーもいる。

イベサー運営に関して,幹部とパー券要員は友情でつながっていると(建前上は)主張しますが,実際は金のためのシビアな関係がそこにはある。もちろん完全にビジネスとして割り切っている訳ではないものの,時に大学生には大きすぎる負担を強いるサークル運営に際してはドライな感覚を持っていなければならないようです。しかしながら一方で,最後までサークル運営に関わった場合は,友人として今後とも付き合っていくのもありがちなパターンとのこと。

この映画では,夫婦生活が一度破綻した後の展開が面白いところとなるのですが,そこでの夫婦の描写はある種一定の分業体制として描かれています。一度信頼関係を失ったふたりにとってもはやそれ以前には戻るべくもなく,強制する側とされる側の区分ができてしまっている。里子と夫との関係は主従関係となるのですが,一方でそれ以前の仲睦まじい関係も垣間見える。要するに,ふたりの関係は倒錯しながら微妙な力関係によってこじれていく。里子は,一度夫に「お前が憎いのは俺なんじゃないか」と詰め寄られた際,どう見ても自らの本心を隠しているようなわざとらしいリアクションでごまかす。それはふたりの相互理解を拒む行為であり,自分を荒涼とした心情に追い込むものです。元の自然な関係を拒絶したふたりが辿り着く結末はどうなるのか?というダイナミズムが今作最大の見所だと思います。

居酒屋を焼き尽くす炎を見上げるふたりの姿は,今思えば,さしずめエデンを追放されたふたりのようにも見える。リンゴを口にしたから追い出されたのではなく,エデンを失ったからこそリンゴをかじって何かを背負い,自らを形作るようにしか生きていけない人間もいるということなのかもしれませんね。