スティーヴ・マックイーン監督『シェイム』

・私たちは常に、満たされ損ねている。

SHAME -シェイム- スペシャル・エディション [DVD]

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この何週間は,この映画を観たいがために生きてきたようなものでした。あまり面白くないとの意見も多数拝見しますが,私は今年度ベスト級の傑作だと思います。

ニューヨークでエリートサラリーマンとして成功を収めるブランドン(ミヒャエル・ファスベンダー)。しかし職場では理性的な行動をとっている彼のプライべートライフは,道端での行きずりの女性との性行為やアダルト動画の収集,コールガールを呼ぶなどのまさしくセックス中毒と呼ぶにふさわしいものであった。1人暮らしのマンションで二重生活を行いなんとか精神的なバランスのとれた生活を過ごしていたブランドンだったが,ある日彼の妹であるシシ―(キャリー・マリガン)がマンションに転がり込んでくるようになってから彼の生活は一変する。女性と関係を持ってもあくまでドライであり続けようとするブランドンとは対照的に,相手に深く恋愛的な依存を繰り返すシシ―。彼らは各々の形で愛を求めながらも,やがて破滅的な道を辿っていく…という話。

本作品は,その生々しい性描写もさることながら,映画全体をとおした空気感や色使いに特徴があると感じました。外見から見れば勝ち組サラリーマンで女にも不自由しないという,なにもかも満たされているブランドンが,しかしながら本当に欲しいものが満たされず空虚であることが,生活感に溢れたセックス描写をとおして伝わってきます。また,全体をとおして画が青みががっているのですが,そちらも静的な雰囲気づくりに一役買っており,劇的ではないにしろ緩やかな陥穽ともいうべき欲望の地獄を憂鬱とともに都会的に描くことに成功していたと思います。

ドライなセックスに溺れる日々を過ごすブランドン。そのセックスは時に情熱的になりこそすれ,しかし満たされることはない。職場ではナイスガイを演じる彼の顔も,プライベートでは常に空虚なものです。彼に付きまとうのは、決して誰とも分かり合えないという孤独。同じニューヨークを舞台にし,同じような題材を取り扱った『タクシードライバー』との連続性を感じました。*1

他媒体で多く言及がなされていることですが,この映画ではその内容の中で明言はされていないものの,ブランドンとシシ―の兄妹が
(1)兄妹にしては親密すぎる描写(シシ―が裸を見られても気にしない,ソファーで肩を寄せ合う二人など)
(2)「私たちは悪い人間じゃない。ただ生まれてくる場所が悪かっただけ」というシシーの台詞
を根拠に虐待を受けていたのではないかという説があります。そしてその虐待の中で過ごす過程で2人は関係を持ってしまったとも。私自身も映画を観る中ではそういう風に観るとすんなりいくと思いました。

ありのままの自分を受け入れてくれるといった理想的な愛情形態を追い求めること,引いては普段の生活では現れてこない「本当の自分」なるものの探求をすること。そのような行為は,言語で「自分」のことを説明する行為に近い。そもそも他者との意思疎通のツールとして生まれた言語は,人間が動物から進化する過程で得たもので,それ自体が人間の自己意識を規定しています。言語が表すものについて,私たちはそれが自らの経験から独立したものであると言うことができません。そのため,言語によって語られる「私」は,どこまで行っても今この瞬間の「私」,それを経験する主体としての「私」を説明しえず,自己言及なるものの不完全性が証明されてしまいます。

人間は,成人ともなると人間の精神の原光景ともいうべき子供時代に立ち返ることはもはやできない存在です。自己意識が完全にすり替わっているため,私たちが自己同一性の根拠として信頼している子供時代は過去のものであり,それは成人となった今となっては幻想とともに信じられるものでしかありません。逆の例として,子供時代を不遇なものとして過ごし「あの頃ああしていたら,今の自分の生活はもっと素晴らしいものになっていたのに」という想像に悩まされる人は,その「ありえたはずの人生」を繰り返しイメージすることで自分の生きる根拠を取り戻しているとも言えます。

ブランドンとシシ―もそうで,これはいわば「取り戻し」の行動をとろうとしてに逸脱してしまう大人達の物語です。巷で皆が口々に話題にしている(そして私も患っている)コミュニケーション障害とは,他人との距離の取り方が分からず萎縮してしまう症状のことを指すものだと思いますが,この映画では真逆,要するに他者に多くを求めすぎてしまうためにうまく行かない人々を描いています。愛人に「別れたくない」と泣き付いて電話をするシシ―はそのとおりですが,ブランドンも過剰な欲求を持て余し(量的に)異常な性行為を行ってしまう。肥大化する欲求とそれに追いつかない感情。そのストレスはシシ―というきっかけによってより過大化されますが,そもそもブランドンが抱えていたのはいずれ爆発する不発弾のようなものだったのではないでしょうか。

自分にとっての理想の関係を追い求めること,それ自体に決して悪い意味はありませんが,「愛に溢れた結婚」みたいなものをある種のゴールとして設定してしまうと,その理想像に追いつけなかったり,手に入れたとしても「こんなはずではなかった」と現実とのズレがあからさまになってきてしまうものです。しかしそれでも人はあるはずだった原光景を思い描かずにはいられない。例えばそれはこの映画の主人公達であるし,立派な社会人になり普通に社会に溶け込もうとして,逆に何もかもが挙動不審になっていたりする私であったりするはず。理想と現実の間でもがく人間の姿はとても滑稽ではありますが,信頼して話をすることができる人間が殆どいない世界で原因は異なれども同じように空虚感に苛まれている人間がいる,という映画を作ってくれる人がいるというだけで嬉しいものです。

ラスト,自分の分身ともいうべきシシ―のとった行動に心を完全に乱されてしまうブランドン。ヤケになって娼婦と乱れたセックスを行うもその顔は苦悶に満ちており,雨の中のランニングでは苦しみと悲しみに満ちた表情をあられもなくする。欲望を処理し続けた代償として焼け爛れていく心。何かしら満たされない部分があって苦しんでいる人間には,その心境が伝わるはず。人々は,一瞬の快楽でごまかすことはできても,自分の心境を理解されないという地獄の上に生きているもので,それは今後も続く。愛に見放された人々は,例え拒絶反応が出てすらもそれを追い求めなければならない,永遠に満たされない神経症のような人生を歩まなければならないのだろうか。


”身体が心を支配するのか,それとも心が身体を支配するのか?””私は未だに病気なのか?”

ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

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*1:というか黄色いタクシーが何回も出てきたんだけどあれってやっぱり示唆だったのかなー,と思ったらニューヨークのタクシーって全部ああなんですか。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%96_%28%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%29 知らなかった。