河合勇人監督『鈴木先生』

・敗戦兵より愛をこめて
鈴木先生』土浦で観てまいりました!原作の漫画も学生時代に読んでいましたが、ドラマ版を観てさらに好きになってこのシリーズ、まさかの映画化ということで期待して観にいきました。オープニングで"Lesson 11"とあるように、ドラマ版の続きというイメージで制作されたのでしょう。ドラマ版のファンへの感謝の意を込めたプレゼントであるかのような印象を受ける作品でした。

映画 鈴木先生 豪華版 [DVD]

映画 鈴木先生 豪華版 [DVD]

緋桜山中学校で国語教師を勤めている鈴木先生長谷川博己)は、過去受け持ったクラスでの失敗をもとに生徒たちに既存の教育慣習に囚われない独自の教育方針をもって日々奮闘している。担当する2年A組の生徒指導は成功しつつあるのを実感していたが、目前に迫った生徒会選挙でまた一波乱が起きようとしていた…というお話。

正直言って映画としての出来は65点位。ドラマのセットそのままで撮影してしまったかのようなカットが多すぎて映像に間延びした印象を受けてしまったし、最後に至っては、あのジャンプがどうこうというよりもあの屋上のシーン自体が蛇足だったように思う。意味があるとすれば、小川の台詞「私の体には、私のもの以上の責任があるんです」や「ここにいる皆は、恐ろしくなって声を上げるような人間ではない(だっけ?)」を引き出すためだと考えられるけれども、そのすぐ後に皆騒ぐしね…。教室内での鈴木先生の犯人への説得が、今回の映画、ひいては全体のテーマを象徴するかのような名スピーチだっただけに残念なところでした。でも、演出的な欠点はあれども、この映画で教育に対してかなり希望を持つことができましたよ。以下、書きづらいのでちょっと文体を変えてその理由をば。



私の地元は周辺でも特に荒れているところだった。特に中学校の思い出はロクなものがない。なまじっか勉強だけはできるがり勉タイプだっただけに委員を務めさせられたが、それでも教室は殆ど学級崩壊に近い感じだったし、不良グループや体育会系の先輩からは体でも言葉でも暴力を受けた。さらに最悪だったのが教師はクラスをまとめきれないことを私の責任にしていたことだ。今にして思えばなんで中学生のころから中間管理職みたいなことやってんだという感じだが、社会のいやらしさを否というほど知ったという点ではいい教育だったのだろう。

うまいこと高校受験に成功し、地域の進学校に進んだ私は時折「ここは天国か」と感じていた。偏差値55位のところだったけれども、それでも話の通じないムチャクチャな不良はいなかったし、何もしなくても普通に過ごせるということがどれだけ私の心を軽くしたことか。そして進路を決める中でいつしかスクールカウンセラーを志すようになっていた。かつて中学校でオトナとコドモの間で心を軋轢させられた自分にとって、また自分と同じような目に遭っているような後輩に、少しでも救いを与えられたならと思っていた。本気で。

しかしその意志も、予備校時代の講師の話でスクールカウンセラーなるものの実態を知って挫折してしまった。その後大学ではネットの波にどっぷりと浸かりつつ、社会の中で人々を翻弄する道徳なるものの正体を突き詰めてやろうと倫理学を専攻したが、結局その実感を掴むことはできなかった。そうこうしているうちにうっかり社会人となってしまったのが今の私の現状だ。

正義はタダではないし、そのままの私を社会は生かしてはくれない。これは四半世紀ほど生きてきた中で私が得た実感だ。そしてこの映画の中で生徒を襲撃することを決意する元卒業生も、同じような問題にぶち当たっていたのだろう。就活に失敗したことがきっかけで引きこもり、家族や社会のつまはじき者となってしまう彼は、学校内では元優等生だった。元不良だった同級生が会社社長や玉の輿に乗っていることに絶望した彼は、優等生に対して絶望を与えることでその解決を目論見る。手段はさて置いて、その主張ははっきり言って正しい。いじめで他人の人生を狂わせた元不良がいいパパになって幸せな家庭を持つことがありえる位には因果応報は不完全な制度のままだし、優等生として社会規範を守ることは生きる術とはならず人は狩人のように「生」を社会の中で奪取しなくてはならないのだ。ややステレオタイプなきらいこそあれ、彼の行動には道理があり一応のリアリティを感じさせる。

この作品の中には、過去の自分が生徒としてたくさんいるような気がした。自分が信頼していた生徒が選挙に当選せず有名無実な候補者が当選してしまったことに怒りを覚える生徒、生徒会選挙に出馬しようか迷うものの鈴木先生によって半ば強引に前に出る女の子、それに上述の元卒業生だって間違いなく自分に身に覚えがある。中でも授業中自分の話を聞こうとせず仲間うちの会話ばかりするグループに対して憤慨する委員長タイプの武地の姿は同じような経験を多数してきた身には照れくさいものだった。

しかし、間違いなくこいつには自分の要素がないと言える生徒がいた。小川蘇美だ。彼女は優等生でありながら鈴木式教育メソッドを体現する人間であり、もともと周りの生徒とは違う人物だったのが、鈴木先生からの教育で自分の弱みを克服し、自分を襲ってくる犯人に対しても理論武装で負けないキャラとなっている。時に物語では、人が一つも共感できないような振る舞いをすることでリアリティのある物語を回す、ある種「神」と呼ぶにふさわしい役目を担うキャラクターが存在するが、今回の小川蘇美も一見優等生でもろく見えながら、強い信念に基づく振る舞いをしておりそれは「自分の外の人間」として私の目に映った。

私はこれまでにそんな社会的に神がかったポジションを得ることはなかったし、私の学生時代にはこんな生徒はまず存在しなかった。いや、存在しえなかった。人生で初めて社会の硬直性を教えられる学校という場において、誰もが多かれ少なかれ挫折し、結果「なぁなぁ」に生きていくことを学ぶ。「社会を学ぶ場」においては、その組織という性質上思考を停止することこそ求められど、自分で考える能力の涵養は二の次。だからこそ、正直言って彼女を観ていると複雑な気持ちにさせられてしまう。何故なら彼女は「自分で考える」鈴木式メソッドを自らのものとし、自分の考えを主張することに成功しているが、それは今でも自分にできないことだから。映画を観ていて、今に見てろあんなのうまくいきやしないといういかにも意地の悪い大人な考え、あるいは転校生の足を転がしてやろうというような気持ちが顔をのぞかせた部分があった。しかし、多分彼女はこれからの将来の人生で少なからず失敗すると思うが、それすらも糧にしてさらに前に進んでしまいそうなタフさの片鱗を見せていた。自分が今にも殺されるというのに、心配する周りの人間に「壊れることを自分に許さないで」と言える中学生が何人いるだろう。でも、それが私をさらにもやもやさせる。

今、私の下の世代についてちょっと感じるのは、現代のソーシャル感を備えたことによる一種の欠如と、それをものともせず社会に出ようとする層の存在だ。私の世代ではいつ鳴るとも分からない携帯電話を持ち続けることに耐え切れずジュースの入ったコップの中にダイブさせてしまった人の話があったし、それを「あー分かるわー」と共感していたものだ。しかし今や若者にとって携帯電話は人間の感覚器官のようなものとなり、しまいにはもっと精神コストの高いSNSに一日の多くの時間を割くことに何の抵抗もない。それは古い人間からすれば感覚の欠如だが、しかし新たな社会に対応した世代の台頭とも言える。そして若い世代は、この炎上社会においても平気で自分の考えを投稿している。こちらがこそこそ隠れて楽しくいきようと必死な一方で、自分の役割を進んで「引き受ける」人間も出ている。これは「演じること」について、それは1つの処世術なのだと鈴木先生が教える場面があるが、そのメッセージとも通じている人間性の部分だ。

だから、そんな人たちには私なんか飛び越えて行ってほしいと思う。組織論でいえば、日本は少なくとも江戸時代から今に至るまで同じような問題に悩まされ続けている。それは組織の硬直性だ。システムは私達を疲弊させ、私達から大切なものを奪い無力にしようとする。しかし人々が対極に置く「人間性」なるものの正体についても誰一人として答えを持ってはいない。もし意見を言おうものなら、それについての反論が人の数だけあるといっても過言ではない。自分の生きる正当性を求めて、人は喜劇のような悲劇を繰り返してばかりだ。でももし彼女のような存在が今の社会に実在しているなら、それは1つの奇跡だし、そのまま成長してくれれば本当に社会を本当の意味で変えてくれるのではないか。

今私が悩んでいるのが、仕事を通して弱い者いじめの運動を拡大再生産する営みに直接的・間接的に手を染める可能性があることだ。それだけはまっぴらごめんなので、もし立場上そうせざるを得ない部署に就く前にできれば仕事を辞めたい。そうしなかったら、人が色んなものを負わされて潰されることに立ち向かいたいと思ってスクールカウンセラーを志していたかつての自分が許さないだろう。原因が自分以外のところにありながら、間の存在として責任を押し付けられる存在を生み出してしまうこと自体許されないことだし、そんな藁人形を作ることでしか成り立たない社会にいたくはない。できることならそんな社会の俗悪性には客観的でいたいと思っている。

巨大な制度に対して正面から反対して勝つ自信はない。なので、もはや私は他人に対して思想的に勝てる人間であるとは思わないし、これからの人生で権力を得ることで自らの生の充足を得ようとは思わない。どうしようもない社会構造に対して精神的に隠居してやろうと決め込んでいる人間だ。何もしないことで何の悪も生み出さないならばそれに越したことはない。許されるならば遠い南の島でボケて過ごしたいが、そうならないうちは息を潜めて社会に生きていようと思う。でも、この作品は「引き受ける」ことに肯定的な表現をしたことで今後の希望を見事に示している。もしそういう可能性が本当にあるんだったら、それはとても喜ばしいことだ。