町田康『告白』
ずっと前から家に積んでいてしまっていた町田康『告白』を今しがた読み終えました。
- 作者: 町田康
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/02/01
- メディア: 文庫
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で、読んでいる最中結構頭の中を支配していたのが日本の80年代パンクシーンのことです。『ロック画報』だったかと思いますが、フリクションを特集した際に「当時、言葉はこのバンドの音に追いつくことができなかった」とキャッチコピーをふっていたのが印象的だったのを良く覚えています。1980年代といえば日本は高度経済成長期を終えて安定成長期に入り、後半はバブル景気に見舞われていたという時代です。その時代背景の中冷凍都市トーキョーでは外国のパンク/ニューウェーヴに影響を受けたパンクロッカー達が地下で空気を異質に震わせていたと。
そして、言わずと知れた事実ですが、この小説の作者である町田康も当時においてパンクロッカーとして音楽活動をしていました*1。その当時の、自身にもわけ分からないことを何とかして伝えようとしている曲を聴くとこちら側にも苛立ちが伝わってきて、この主人公は間違いなく彼自身、あるいは経験を深く投影した人物像なんだなという思いが募ります。*2
つまり「思考と言語が一致しない」フラストレーションは80年代の先鋭的なロックミュージシャンにみられた現象であり、フリクションはそれを抜き去ろうとして疾走し、町田町蔵はそれでも理解を得ようと自らの心情を誠実に音像化しようとしていたといえます。
そして一番言いたいのが、80年代の中でもあぶらだこという、非常に希有な存在のパンクバンドが存在していて*3、彼らの言語に対するスタンスがパンクそのものであり、自分もとても共感する所が多い、ということです。
彼らはいたずらに社会への不満を絶叫したり、ディストーションギターでガンガンせめる、といったことをしません。しかし私は彼らをパンクバンドだと思います。何故か。それは存在そのものが既に人間の本質たるものへの反逆となっているからです。おおよそ、ボーカルの歌っている歌詞は意味不明だし声は気持ち悪いし音は変拍子主体で耳慣れないものだしで一聴すると「これキモイ」と言われがちです。しかしその時点でもう十分「復讐」は達成されていると言って良いでしょう。
意味の分からない歌詞、奇声、複雑怪奇なリズム、これらは全て常人からからしたら気味の悪い、排除すべきものでしかありません。しかしそれが「母語を失った者達の言葉にならない叫び」だとしたら?当たり前のものに満足できないものの、それに代わるものを得られなかった負け組の実践だとしたら?
言語は人間が集団の中で育つことで自然と習得できるものであり、また普段の会話でおおよそのことを伝えるあうのに欠かせない、つまり一つの文化圏内にいる人々にとって重要なツールです。そしてその存在に全く疑問を持たないならば以後も難なくその人は人生を謳歌できるでしょう。しかしその集団から排除されてしまった者達はどうなるのか。集団が当たり前としている常識に納得がいかないまま集団の圧力を受け続けることになる。そこで狂人が発生する。今の観点から見るとおかしいのはその集団の方でその狂人はかなりまともな神経を持っていると判断できるケースでもどうしようもない。そこで発生したのがあぶらだこだと考えています。*4
相手は明晰な言語を持って自分を責めてきて、自分がそれに対応する言語を持たない場合、その人間の中にはただただフラストレーションが溜まっていく。そして追い詰められた人間が、意味不明でアバンギャルドな世界をぶつけることを通じて、自らの内なる混乱を外の世界に拡張させることで相手の立っている地盤を崩しにかかる。これはパンクのなかでもかなり根源的な破壊といえると思います。
むろん明快な言葉でもって常識の世界と戦う、というスタンスもあるにはあるでしょう。しかし自分はそういうのにも飽き飽きしていたクチなのでひたすら部屋に籠もってこういう音楽を聴くことだけをしていました。そして今回この「思考と言語が一致しない」主人公の小説を読むに当たっても、町田氏本人の音楽よりかはあぶらだこの曲をBGMとして思い浮かべるのが自分にはしっくり来たのは上述の理由によるものだったのかなぁ、と推測しています。