坂口尚『VERSION』(上)(下)

・言葉の前に,思考の前に

もはや最近の漫画についていけなくなってこの頃は昔の漫画家の作品をブックオフで立ち読んではお気に入りの作家を探し出すのにはまってるんだけれども、その場合上巻読んで惹きつけられても下巻が見つからなくてアマゾンで探したらプレミアついてたり、逆に下巻が見つかっても上巻が無いとかあってつれーわー、とか思うこの頃です。

というわけで,アマゾンで中古を買って坂口尚『VERSION』読み終えました。

VERSION(上) (講談社漫画文庫)

VERSION(上) (講談社漫画文庫)

VERSION(下) (講談社漫画文庫)

VERSION(下) (講談社漫画文庫)

ある日私立探偵八方のもとに,”我素”という自ら学習するバイオチップを研究しながら行方不明となっている日暮博士を探してほしいとの依頼がくる。向かったオーストラリアで博士の娘・映子とともに博士の足取りを追ううち,彼らは謎の教団に追われることとなる…というお話。

作品が発表されたのが1990年代初頭ということもあって、記憶媒体の主流がフロッピーディスクワープロがまだまだバリバリ使われている社会だったり、デジタル描写も粗くて当時を思わせます。ルート2の答えを思考しているブロックとかベタだなーと思いますが,むしろ一昔前の感じが出てて悪くないなーとも。今現在の地点から『ブレードランナー』を観る感覚にかなり近くてワクワクしました。

ストーリーの中で出てくる「我素」というタームが西洋世界でいう自我を連想させるもので多少紛らわしくなっていますが,要するに人工的に増殖された「自我」が、全体的な意識の支配を目論む『私』に反抗するものとしてある、という構図であると。それを押さえて、難しい言葉をそれなりに捉えていけば物語の進行を把握することはできます。

この作品を初めて読む際には,むしろ敵役であるレリギオ教団のボス、エコーが提唱する「『私』は『自我』だ、私は『私』だ私が私を『私』と呼ぶ』私も私に『私』と名付けている」「おまえ達の祖先はみずぼらしかった、木の上や洞窟でいつも怯えていた。『私』はパワーの源泉なのだ」といった主張のほうが、『2001年宇宙の旅』の猿が知性を得た瞬間の描写とかグレッグ・イーガンとか,あるいは最近だと伊藤計劃の作品に触れてきた人には親しみやすいテーゼなんじゃないでしょうか。人間がそれ以外の動物と大きく区別されるようになった理由の一つとしての自我。それは創発説といって長らく思想界の問題であったし,映画・小説等で頻発して用いられてきたモチーフです。

また、進化の途中で『私』を得た生物が同時に思考の翼として言語を得て活動したため、その存在が私たちの認識全てを支配しているという発言。こちらは、「はじめに言葉ありき」に示されるような,言語が全ての存在を存在たらしめているという思想に裏打ちされているものです。『私』という言葉があってはじめて私達は『私』なるものをイメージすることができる。そしてその言葉で思考し,伝達を行うことで私たちは社会的な共通信念を持つことができる。どうしようもなく言語に支配されている私たちの生活を振り返ってみれば、言語は非常に外部的・規定的な存在として表れてきます。

途中で度々挿入される「思考の果て」というターム。「我々は思考の限界を思考することはできない」と言ったのはウィトゲンシュタインでしたが、その限界性を認識することによってのみ示唆されてくる地平があると。それがウィトゲンシュタインにとっては「語りえぬもの」なのでしょうが、この漫画ではもっと神話寄りなところ「風が吹いている場所」として示されています。

言語・理性による認識の限界を超えた場所にあるものは何なのか。本作の最後では、印象的な言葉が示されたうえ、この物語のカギとなってきたヒロインが「風を感じている」シーンにてその答えが示唆されています。それは、私たちの世界を弱肉強食的な悪意から守っているものであるし、または私たちを果てのない闘争へ導くものでもあるかもしれません。これは、作者のSF及び宗教の解釈が最も出ているところだと感じました。

芳しくない評価も聞く作品ですが、『石の花』に並んでお勧めしたい作品です。アマゾンの中古で1円から売ってるので読んで損はないとは思いますよ…。


物心つく前から聴いてきたせいもあるのか,この曲は遺伝子レベルで訴えかけてくるものがある。でもジブリ作品が持つ神話的・根源的なイメージって、監督があからさまにそっち方面にアプローチすればするほど薄れてるような気が…