クリント・イーストウッド監督『J・エドガー』
・歴史はそんなに単純じゃないぜ
クリント・イーストウッド監督『J・エドガー』観てまいりました。
- 発売日: 2012/06/02
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初代FBIの長官となったJ・エドガー・フーバー(レオナルド・ディカプリオ)の人生を描いた物語で、主にその部下であったクライド(アーミー・ハマー)との関係を中心に映画は進んでいく。
最初はあーよくあるアスペルガー権力者のドラマで周りの人物がいかにそいつに苦しめられるのを中心に描くのかな、と思ったのですが、意外とスイートなラブストーリーの側面がある…というかむしろFBIという巨大な管理機構を作った人という割にはその描写はなくむしろ内向的な愛を中心に描くいわゆる「キミとボクだけのセカイ系的な感覚」すらありました。
一番象徴的だったのが、キング牧師がノーベル平和賞を受賞するのをフーバーとクライドが家のテレビで見ているシーンでした。キング牧師を敵視するあまり、あの手この手でキング牧師サイドに賞を獲るなと脅しをかけてやったぜ見てみろ今に奴は賞を辞退するぞ、とテレビの前で意気込むフーバーだが、実際には史実の通りノーベル平和賞を受賞する。呆気にとられるフーバーの顔には、落胆とともにその後の自身の機運が凋落していくことが暗示されている。
今現在で、このアジアの島国でさえ社会の教科書で思想的英雄として伝えられるキング牧師。おそらくその名誉は、「この無秩序状態から国を守る」としきりに喧伝するフーバーが喉から手が出るほど欲しがっていたものです。自身が同性愛的傾向を持ちながら、表向きはゲイを含むマイノリティの弾圧に向かった男。それは、屈折していながらも根底の信念は曲げずにそのまま挫折した人物といえるでしょう。
噂によるとクリント・イーストウッドはリバタリアンらしいですが、やはりどうしても『グラン・トリノ』のイメージを引きずってしまっていて、アメリカというコミュニティ性をその暗部ごとを一身に背負った監督自身のキャラクターを想像してしまいます。もちろんリバタリアンといってもその全てがみな同じというわけではないのですが、それまで依拠してきたコミュニティの終わりに際して自分はどうするのか、というところに最近のイーストウッド監督は固執しているようにみえます。
自分の気に食わない人間を口々に罵り、時には事実を曲げてまで自分の思い通りにことを進めることばかりしかしてこなかった主人公の最期の姿はとても醜いだろう。しかしその哀れさの中に、叶わなかった意志のようなものを感じ取るなら、そこに「死んでもいいから後の世に何かを残す」という思想の流れを見ることができる。そして、現実の我々もそうしたいとは思っているものの、実際には奇妙な形で終焉を迎えざるを得ないことの方が多いのだ。