園子温監督『恋の罪』

・真理は常に隠されている。
恋の罪』鑑賞してまいりました。

恋の罪―愛にさまよう女たち (リンダブックス)

恋の罪―愛にさまよう女たち (リンダブックス)

今や日本映画界を時めく園子温監督の新作、ということで期待して観に行きました。今回はやや毛色を変えてきているものの、やはり監督の色が出ている作品でした。個々のシーンのインパクトが強く、また鑑賞者としての私にとっても、思うところが多々出てきました。

渋谷のラブホテル街にて女性の死体が発見される。その殺人事件を追う刑事は夫の友人との関係を止めることもできず続けていたが、事件を調査していき、小説家の妻であるいずみと女性大学教授の二人の足取りを追うことになる。果たして彼女が対面する事件の真相とは…というのが筋。

映画を観始めてまず最初に印象的だったのがいずみの日常をつづるシーンです。小説家の夫に対して、普段より紅茶の入れ方から履物の揃え方からなにまで一挙手一投足尽くす妻のいずみの様子が、出迎えと見送りのカットを核にして繰り返されます。他の映画では見られないほどに異様な光景を目の当たりして、やっぱりこの映画でも狂気が滲み出てきているなーとも思わされるのですが、その一方で、過剰なまでの力強さで物語を押し通してしまうのを特色とする園監督作品には珍しく、静謐な完璧さを前面に出していて新鮮さを感じました。この日常のシーケンスを繰り返していくミニマルな手法は異常なまでの精緻さがあり、いずみが鏡の前でポーズをとりながら接客言葉を繰り返すシーンを頂点にして、型にはまった人間に徐々に狂気が入り込んでいく様を効果的に見せてくれたので観ていてかなりワクワクしたところです。

そして我々は、前半で構築されたその狂気が、後半、『冷たい熱帯魚』にもあった太鼓のリズムを合図になだれ込んでいく様を目にすることになります。それぞれの狂気を抱えながら一つのクライマックスへ向かう事件の関係者たち。物語の歯車の回し方はこれまでの園子温作品同様、多少の粗さを含みつつもエネルギッシュさに溢れたものです。息が詰まるような緊張感を存分に高めたうえでとっさには判断の付かないシーンの連続で畳み掛ける手腕には圧倒されましたし、道を踏み外しまくる女性たちという題材にもそぐうものであったといえるでしょう。この映画を観て自分の価値観が破壊されない人がいるとは思い辛いです。この映画は、これまでの同監督作品と本質的には同じ性質を持つものであるといっても過言ではありません。

さて、映画を観ていて気になったのが、作品中でモチーフとして何度も登場する『言葉なんか覚えるんじゃなかった』という詩です。夜は渋谷のラブホテル街にて娼婦をする文学専攻の女性教授が、講義で読み上げている詩で、後でいずみに大学のベンチでその解説をするものです。要するに「これは愛する人の涙をみて動揺する人間についてであり、他人の目から零れ落ちる『涙』の意味を知らないならばそれはただの水だが、人同士がその意味を共通して保持している以上はその人に涙が意味する感情を伝えられてしまうものであり、その感情を受けて作者がどうしようもできないでいる。」という意味の詩のようです。

「言葉は体を持っているものなのよ」と女性教授が示唆する通り、言葉はその意味が了解されていることで初めて機能するものであり、大学のベンチで行われたのはさながら言語哲学の内容に近いといえます。我々が会話をする際には、その言葉や文章の「意味」「わけ」を前提としなければなりません。その存在を疑う場合、もはやその会話は意味のない行為となるので、例えばもし私の言う「青」が聞き手には私でいう「緑」で表象されているとしても、それを確かめようのない場合我々はその世界で生きなければなりません。両人が同じ意味を前提としているということに疑うならば、他人と会話すること自体が統合失調症のような行動となってしまいます。そして「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というのも一つの言葉で、言葉によってもたらされた後悔を伝えてしまっている訳です。それは発話以外のコミュニーションであっても同様で、例えばこの映画内でいずみがスーパーで試食販売しているソーセージがだんだん太くなる、という監督のネタも言語行為の一つとして我々に伝わってくるものです。

私は文学部出身ながらカフカとか読んでなかった系男子なので、劇中出てくるカフカ『城』の意味を推測するしかなかったのですが、言われているのは要するに、人々が意識するにしろしないにしろ心の奥底で求めている「本質」、あるいは「真理」のようなもので、カフカの作品はそれに辿り着けない不条理さを意味しているというものなのでしょう。「我々が見ているものは、すべてイデアの世界の影にすぎない」とギリシャの偉い人が主張したのは2400年も前のことですが、しかしながら現代でも換骨奪胎を繰り返しつつ今なお生きている思想でもあります。言語の限界を論じる場合それは「語りえぬもの」となり、人間が依拠していながらもそれが何なのか明確に表現できないものであります。*1つまり、我々の生きる上での信念体系の基礎となるべき部分は今だ闇に包まれていて、真理は常に見えないものとなっている。そのため、我々は信念体系の支持する仮初の真理に従って生きていくしかないのです。

加えて、この映画の特徴として指摘してみたいのは、『ノルウェイの森』への類似です。何となく不自然に感じられる戯画的な登場人物同士の会話や言動、女性の身体性の問題、人物との邂逅の際の食事シーンの恐怖*2、そして極めつけは双方とも主人公が最後ほぼ同じようなセリフを言って締めくくるところ等。もちろん単純に比べるには『恋の罪』はコメディや暴力が過多なのですが、それでも日常生活の輪から外されてしまった人間たちのドラマという点では同一ですし、作品のメッセージの着地点もかなり近いところにあるように感じます。つまり、真理や本質を追い求めて身体やモラルの逸脱へと向かう人々が、自らの行動の結果自分の信念体系の根幹部分を破壊されてしまい、新しい言葉で語ることもできなくなった。その地点に立った時の人の思いとは何なのか、というのが主なメッセージなんじゃないでしょうか。


さて感想としては、やりたいことは結構分かって満足なんだけど、これだったらむしろ、わざとらしいセックス描写だったり演技力の十分でない役者使ったり過剰に笑いに走ったりとわざと粗さの目立つインディ臭い演出をしなくても、その辺映画としてかっちり作った方が前半の緊張感が生きて、観た人全員に確実に後遺症を残す映画として後々にも残る作品になったんじゃないだろうかと強く思いました。ただし、誰でも観て何かしら感じるものがあるはずですし、この映画について誰かと話したい!という欲望はすごく出てくる作品です。下手するとトラウマになりかねないシーンも多数出てきますが、2時間半の人間の価値観破壊ショーとして全く飽きがこず、最後まで面白く観られる映画でした。

*1:大学時代友達(後に思想系の院に行く)に「イデアと語りえぬものって同じだよね」って言ったら違うといわれたけど、いまだによく分からない

*2:オバサン怖かった…