ジョン・キャメロン・ミッチェル監督『ラビット・ホール』

はてなブログ何それおいしいの的な感じで進めております当ダイアリーですはいどうも今晩は。


TOHOシネマズシャンテで観てまいりました『ラビット・ホール』、音楽といいテーマといいい、同じ場所で観た『未来を生きる君たちへ』を観た時と同じ感覚がありました。何というかこの映画館はあれですね映画館としてブレない特色があるというか映画選びのセンスに一貫性を感じるというか。それとも今のアメリカの地味目の映画が全部こんな感じでそれを単に紹介しているだけなのかもしれませんが。

あらすじとしては、事故で子供を失った夫婦がその後お互いや事故被害者の家族、そして加害者の少年との交流をしていくというお話。割とありがちっちゃあありがちなストーリーです。

しかしなかなか良かったこれが。二コール・キッドマンやその夫などの繊細な演技が、精神的にうまく立ちゆかない人間のもどかしさみたいなものをうまく表しており、また音楽も前に出過ぎない塩梅で、うっかりすると今にも壊れてしまいそうな世界観を創っていて心ゆくまでじっくり入りこめました。

面白かったのが、夫婦が普段の心情を取り戻すために通うセラピーでの場面。キリスト教にすがる事でやっと心の安定を得た夫婦がその体験をグループの全員に話した際、主人公のベッカは信仰を気持ち悪いと言って拒絶しその場から立ち去ってしまいます。あんなにゴッドゴッド言ってるアメリカでも市井の間ではキリスト教嫌われてんだなーと。あるいはむしろどっぷりだからあんな風に言えるのかわかりませんが。

終盤の「大きな岩のような悲しみも、ポケットの中の小さな小石に変わる」という言葉はとても印象的でした。それは完全に消えることは無くこれからも事ある度にチクチクその人の心を痛めつけてくであろう。しかし”諦める”という思想は不条理にぶち当たった人の心にとって救いともなるんだよな、と思わされました。

高校の頃よく読んでいたロッキング・オンで、メタル・バンドである*1Kornのインタビューが載っていたのですが、ボーカルで児童虐待の経験者でもあるジョナサンが、同じく児童虐待を受けて大人になった今でもその精神的な後遺症に苦しんでいるという人に向けて「残念ながらその苦痛は死ぬまで消えることは無い。」と言っていたのが今でも頭の片隅に残っています。無理にその経験を無かったことにしようとすれば余計にそれは執拗に襲ってきて、苦痛に満ちた思い出と格闘することに囚われてしまう。全ての苦痛の消去というできないことは諦めたほうがよっぽど救いになるという、彼らしい誠意に満ちた回答だったと思います*2

その後、夫婦は事故前に行っていたかのようなパーティやらを通じて普段の感覚を取り戻し、わずかながらにもまた相互の信頼を取り戻してエンドとなります。昔読んだ女性誌で、「カップルの不感症は二人の感情の行き違いが大体の原因です」とか書いてあったのを読んだことがありますが、かつて愛し合った二人でも、いつかはその愛が失われて相手に対する肯定的な感情が湧きあがってこなくなる時が来る。この映画ではそれが事故という不運がきっかけとなっていましたが、それはいつ誰にだって起こりうることです。その絶望的な地点から立ち直ることはとても難しいし、またそれを説得力をもって描くことができる映画もそんなにはありません。『ラビット・ホール』は、その点物語や登場人物の心情の成り行きが納得のいく良作でした。

さて、上のアメリカ版のポスター、何かどっかで見たことあるんだよなーと思ってたら、昔の精神薬の広告に同じモチーフが出てたんですね。以下閲覧注意。
The Japanese Gallery of Psychiatric Art--Part2
要するに自分が自分で無い感覚を表しているんですね。地味に伝わってくる分おっかない…

*1:こう書いていいのかな?

*2:まぁ、その一方で"kill you"とか歌ってんだけど