坂口尚『石の花』

幸村誠好きなら坂口尚読まないとダメだよ」と言われ続けていたので、じゃあ読みたいなと思っていたら坂口尚の名前をたまたまブックオフで見かけたのでつい購入。噂に違わぬ素晴らしい作品でした。

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

舞台は第二次世界大戦時のユーゴスラビア。それまで平和に暮らしていた主人公クリロや兄のイヴァン、幼なじみの少女フィーは、国が戦争の舞台となってしまうことでそれぞれ過酷な運命にその身を置くことになります。果たしてナチスドイツに占領されたユーゴで人々に何が起こっていたのか。

とにかくこの作品の中では人の命が軽い。主人公が流浪の果てに辿り着いたコミュニティも強力な軍隊が現れては仲間たちの大半の命をいともあっさりと奪っていく。遠藤周作『海と毒薬』のなかで「戦争中だから毎日誰かが死んでいる。こんなにも命の価値のない世界は無い」といった諦念に近いほどの無力さを感じさせる台詞がありましたが、今回もそれを彷彿とさせる非情さをみせております。自分達の仲間や周りの人々がどんどん命を落としていく中で上記のような諦念を読者である我々も追体験することになります。

戦争が人を変えていく。そんな世界観の中で特段印象的なのは、それでも人々がイデオロギーのもとに行動しているところです。5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字をもつユーゴを舞台として、あるものはユーゴのためにナチスに反抗しゲリラに加わったりドイツのスパイとして行動し、またあるものは美しい世界を地上に作り出すためにナチスドイツに忠誠を誓い、その上でどんな残虐な行為も行っていく。そのイデオロギーに振り回されつつもそれらが一向に状況を改善していかないという人間の悲しい姿が物語の悲劇性を際立たせています。

かなり昔の作品なのですが、しかしながら全く古びていません。最初読んだ時は「これ全然今でも行けんじゃん」と思う程に絵柄に対して抵抗はありませんでした。手塚治虫ライクなとてもポップなタッチです。シンプルながらもブレない感じなので安心して最後まで読むことが出来ました。

1巻を読んだ時はあまりの情報量に、「まずい、これ以上の作品には今後出会えないかもしれない…」と心の奥底で恐れる程の印象をもちました。しかし最後まで読んだ限りでは、最後の展開があまりに急過ぎてちょっと作品の完成度を損ねているとも。最初に先生が何か暗い過去をもってる風を匂わせてたけど結局最後まで分かんなかったとか、フィーどうやって村まで戻ってきたんだとか、諸悪の根源の如く立ち振る舞っていたナチスのエリートたちは最後どうなったんだろうとか色々腑に落ちないところもちらほら。

しかしそれらの点も、最後のクリロの上官への反論のシーンの前には霞んでしまう。というかここに作者の主張が明確に表されています。ユーゴ解放のために寄与したとしてGHQに呼び出された主人公。しかしそのすぐ以前にクリロは敵側に加担したとして男がリンチを受けている現場に出くわしていた。クリロは制止するものの結局男は死んでしまい、「敵はドイツ兵だけではない」と痛感することになる。そして上官との会合にて、戦争を仕方のなかったものだとし、また国のために生きるべきだという上官に対し、「第一どんな国を守ろうというんです!?いったいどんな人々を守ろうというんですか!?」と食ってかかるクリロ。その後クリロはコスモポリタニズム(世界市民主義)に近い思想を展開するが、上官は「君の言っている平和は非現実的だよ」と取り合おうとしない…

最後、最初に先生と観に行った鍾乳洞にフィーと行き、先生の「石を花に見るのは我々の眼差しなのだよ」という言葉の意味を理解するクリロ。それは現実を現実のものとして捉えず、新しい何かを生みだし続けることだという。ここで物語は終わる。


クリロたちがぶつかってきた問題は結局21世紀の今となっても解決していません。それどころかイデオロギーの対立はいたるところで起きていてむしろ平和など望むべくもないような状況になってしまったとすら感じてしまいます。よりよい未来は果たしてあるのか、そして創ることはできるのか?無邪気に明るい未来を信じることもできなくなってしまった身としては、それでもどこかに答えが落ちてねーかなーと強く思う問題であります。

NHKの世界遺産でシベニクの教会を見て以来、何となく行きたいと思っていたクロアチアですが、この作品を読んで絶対に一度は行かなければならないと思いました。なんなら全行程をこの作品の舞台の聖地巡礼に費やしてもいいです。それ程に『石の花』は、その時代、その場所の空気を体感させてくれる力強い作品でした。