ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』

…例えば、鉛直方向に伸びようとする習性を妨げられている植物の習性がそれだ。その植物は、自由にされても強制された方向に伸び続ける。しかし、樹液はそのために本来の方向を変えるようなことはしない。そこで、植物がさらに伸びていくと、その伸び方は再び鉛直になる。人間の傾向も同じことだ。同じ状態にある限り、習性から生じた傾向をもちつづける。しかもわたしたちにとってこのうえなく不自然な傾向をもち続けることもある。しかし、状況が変わるとすぐに、そういう習性はやみ、再び自然の傾向があらわれる。
                                         ルソー『エミール』

ルソーは『エミール』にて自身の教育論を全三巻に渡り展開している訳ですが、その中で一番有名なのは「自然に帰れ」というスローガンでしょう*1。ようするに人を含め万物はできるならそのままで成長するのが望ましいことであって、人為的なものを差し入れた途端に何もかもがダメになってしまう。

『エミール』岩波文庫版の訳者の方も説明していますが、ルソーが「自然に帰れ」と言う際の自然とは、あくまで存在するものの「本質」的なもののを示している。事物が創成された時から目指されたであろう善性をその個体が伸ばしていくような環境。哲学科時代にこの文に触れた時、何となく掴みあぐねていた西洋思想界でよく言う「本質(nature)」なるものがどんなもんなのか、おぼろげながらにも感覚的に分かったと記憶しています。


前置きはさておき、ようやくレンタル解禁ということで前から楽しみにしていたラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』を観ました。

アンチクライスト [DVD]

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情事の最中に息子を亡くしてしまった夫婦の物語。夫はカウンセラーであり妻もおそらく心理学の研究をしているため、妻に対する身近な人を失ったあとのセラピーに焦点が当たっていきます。そして嘆き悲しむ妻の治療のために夫は「エデン」と呼ばれる、夫婦が以前から使っていた森の中の山小屋へ行くことにするが…というのが筋。

恐らく「セックスにふけっている間に愛する子供を死なせてしまった」という最初の設定は、登場人物を無意識下に性の忌避へと誘導するためのものです。通常ならそれなりにあってしかるべき、かつ生殖のためのみならず悦びに満ちているならばむしろ称賛されるべき夫婦間の性交ですが、その行為が死亡事故というとんでもない悲劇を防ぐことが出来ない要因となってしまった。直接の原因ではないにしろ「セックス=息子の死」を連想させてしまうのは当事者にとっては当然のことであり、また妻は息子が落ちる瞬間を目撃している訳だからいっそう罪の意識を強めて精神的に不安定になってしまう。

そんな二人が森の中へ行くのは、ひとえに「治療」のためです。自然の営みが溢れている環境に身を置くことで自らの行為に対しても自己肯定を持とうとする。特に心理学に通じていなくても、この手の自然やら天然やらに関わることで悪くなった自分を立て直そうとする「治療法」は実際の社会でもよく見るため、そこまで不自然ではありません。

しかしこれがうまくいかない。妻の病状はどんどん深刻になっていき、「俺を信じろ」と男もどんどん傲慢になっていく…

「自然は悪魔の教会」だ、という妻の意味ありげな言葉が響きました。また、「樫の木は百年成長し続ける。けど育つのは百本に一本」「屋根に落ちるドングリの実」という生と死を連想させるシーンの使いっぷりが印象に残りました。

【以下、大学4年間頑張って西洋思想の勉強してきたにも関わらずたいして得るものもなく、キリスト教とかの素養も全然身に付かなかった人間のこの映画の無理やりな解釈】
この作品が『アンチクライスト』を謳っているのは、要するにこの夫婦に起こった出来事が人間存在の本質への反逆を示しているから。拭いがたいセックスへの恐怖からくる性の否定。確かキリスト教は自殺を始め自らが自らの身体に対して危害を加えるのを認めないはず*2。しかし治癒のために自然へと回帰しに来たはずなのに結果として破滅が起こってしまう。

あの謎めいたラストシーンは、山小屋で夫婦それぞれが性を否定した後の闘いに勝った男が山を降りることで日常に戻ろうとするが、しかしあちら側からより多くの女性が山小屋に自らの性を否定しにやってくる。やっと普段通り、つまり男性が男性らしく女性が女性らしく活動する自然に戻ろうとしたのに、本質に対する反逆の奔流にぶち当たってしまい男にはもはやどうすることもできない。

ここですなわち「アンチクライスト」は達成されたのである。


【感想】私は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と『ドッグヴィル』を観たぐらいなので熱心なトリアーファンという訳ではなく深いことは言えないのですが、やっぱり『ドッグヴィル』の毒のが強烈だったなーという感じ。この作品のほうが本質的だ、という意見を聞いて楽しみにしたんですが、これだったら『ドッグヴィル』のがよっぽど端的に人間存在の俗悪的ヤバさを示してるような気がしました。『冷たい熱帯魚』よりきつい、という評価も見たんですがまぁそりゃこっちは生きてる人があんな風になるからなぁ。ともかく、『ツリー・オブ・ライフ』同様、あくまで神話的教訓話であって、観てすぐ生きてくる映画では無いかもしれないがいつか意味をもってくる日が来るんじゃないかな、とミーハーながら思いました。

*1:実際は『エミール』中でその様なことは言っていませんが

*2:だよね?