ガス・ヴァン・サント監督『エレファント』

映画『エレファント』を観ました。色々思う所があったので色々書きます。一応ネタバレ注意。(ネタバレをしたところでそこまで観る価値が減ってしまう映画とも思えませんが…)

エレファント デラックス版 [DVD]

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あらすじとしては、全米を震撼させたコロンバイン事件を元に、そこに暮らしていた生徒達の日常を描いたうえで、その事件が起きた瞬間を捉えたというもの。

この映画では、じっくり時間をかけて登場人物一人一人がどのように日々を暮らしているかが描かれます。その生徒はどんな人間で、普段どんなことを感じて過ごしているのか…が美しい日常描写とともに描かれ、私たちもそれなりの人物像を頭の中で描くことになります。問題を抱えた父親の面倒を見ていたり、カメラで写真を撮るのが好きだったり、「イケてない子」としてレッテルを貼られる地味な女の子がいたり…と自らの学校時代を思い返しても思い当たるフシがある人々ばかりがアメリカの郊外の高校にも存在していることを知ることが出来ます。

しかしながら、それらの人々は犯人の襲撃に伴い想定していた以上にあっけなく死んでしまいます。

この結末は殆ど全ての人にとても不条理なものと映るでしょう。普段物語の登場人物たちに過剰なまでに「意味」を持たせて行動させるプロットに慣れてしまっているせいか、ここで殺されてしまう命は、悲劇性を持たないゆえにあまりにも非ドラマチックと感じられます。

ごくごく当たり前の話をさせてもらえば、普通、物語にとって登場人物とは人形みたいなものであり、それぞれの人々の行動を編集し、最も意味を重厚に湛えたシーンを切り取り、行動の理由に無理がないようにつなげていくことで客観的な一つの物語として初めて成り立つものである訳です。

しかし、食堂の女子達の会話シーンに特徴的なように、この映画で見られる長回しのカメラの多用は、そういった編集を登場人物一人一人の自我が頑なに拒んでいるかのような印象を受けました。

私は今流行の”批評”みたいなものをあまり見ておりませんし、たとい見たとしても「この人たちは何と闘っているんだろう」という思いを最初に抱いてしまうような人間です。*1しかしながら、人の自意識が過剰なまでに範囲を広げていく感覚は何となく理解はできるものです。そして一人一人の自我が強調されることで全体的な物語がうまくいかない、という瞬間を捉えているような気がしました。

また、冷蔵庫に逃げ込んだカップルが犯人に見つかってしまい、いざ犯人に撃たれるという時に「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な」と銃を突き付けたまま始めてどちらが死ぬか不明のまま終わるというラストも、人間の生と死をフラットに見てしまった結果それぞれ意味を喪失してしまうことを表しているかと。あまりに人の命が軽い事態を目の当たりにした時、人はそれまでの生命観を保持しうるのか?「人は、皆平等に価値がない」という言明を本気で受け入れられる人はあまりいないように感じますが、この映画はそこへの挑戦をも示していると思います。

別々の人物からの視点で繰り返される同じシーンを使っていることは、人物の人生を必要以上に重要視することによる、無意味ではあるが奥行きのある世界の発生を示していると思います。このシーンを観て個人的にはツイッターのタイムラインを想起しました。一つの場面でも数々の人から見れば多様に映ることを繰り返しのシーンで示すことと、様々な人の生活のつぶやきが大きく重なることもなく距離を持って流れる感覚は、同じことを示しているように感じます。大きな存在に矯正されることなくそれぞれの意識が流れることは、全体的なものの否定としては機能しています。しかしながらそれ抜きに我々の人生は意味を持ち得るのか?あるいは今後どう生きていくべきなのか?という問いに答えることが出来なくなってしまいます。この映画はその不全性を如実に表しているという点で現代を代表しているといえるでしょう。*2

*3


見間違いだったらアレですけど、エンドロールにacid mothers templeの文字があったかと。本当だったらガス・ヴァン・サントエリオット・スミスといい大分音楽好きなんだなぁ。

*1:因みにこのブログは間違っても批評ではありません。いわばヘッポコダメ人間の読書感想文置き場です。確実なこと何も言ってないし目標もないしね。

*2:ノーカントリー』はこれを観ていることを前提にして観るべき映画だったのかもしれないと、後になって感じた

*3:【追記】というかウィキのページの、「エレファント」という名前の由来の説明の方が、言いたかったことをもっと簡潔に示しちゃってる感じがある…