押井守監督『イノセンス』

押井守監督の『攻殻機動隊』に続く攻殻シリーズ、『イノセンス』を観ました。

テレビシリーズだったスタンドアローンコンプレックスも含め『攻殻機動隊』は大体観ていたと思っていたのですがこれはまだ未見だった、ということでじゃあ観とこうかい、と半ば義務感で観たのですがこれが最高に面白かった!個人的には押井監督と初めて感覚が合ったとさえ思えました。

さて、この映画で主に問われているのはすなわち「私とは誰か?」という問題となるでしょう。自分が自分であることの自明性、それを担保しているのは果たして何なのか。

中盤で刑事たちとハッカーが対決するのですが、そこで相手の天才ハッカーは、お前をお前たらしめるものは何だ?と執拗に問うてきます。そこで主人公側は自分の人格の過去の記憶等を挙げるも「それは脳をハッキングすることでたやすく偽造できる」と論破されます。そしてどんどん「自分とは何か?」という問いを持って追い詰められていくところは、映像美と相まりドスが効いてて良かったです。「私」が「私」の属性だと信じているものが全て偽になりえると考えてしまうと、人はアイデンティティ不全に陥ります。西洋思想界では必ずと言っていいほどついて回る「私とは誰か?」という問いが、私たち日本人にとっても切実なものであると痛感させるほどの説得力がありましたね。

さて、物語の最後で、この事件を起こした原因である少女が、「君のせいで何人もの人が死んだんだぞ」と刑事たちに言われて「だって私お人形になんかなりたくなかったんだもん!」と悲痛に訴え返すシーンがあります。この俗悪ながらも悲しい言葉が私にとっていたく心に響きました。

大学受験の時に知った言葉だと記憶していますが、「『君って〜だよね』と言われて『違う!』と答えた時、その中にだけ本当の自分というものが存在しているんだ」という格言が今も何となく自分の心の中で残り続けています。人が「ふざけんな俺がキモオタなわけねーだろ!」と憤慨する際には、「ではそれではなくて何なのか?」という問いに明確に答えることが出来るとは思えません。むしろ直観で言っているために反射的に答えているというべきでしょう。しかしその言葉の先の明確なゴール地点はなくとも、「違う!」と言った自分の方向性の中に「自分」があるのだ、と。

そして「人間性」という言葉は現代においても我々人間にとって不明瞭な概念です。何故人の命は守られねばならないのか?という疑問に対し、「信じる」とかいったあやふやな表現抜きに答えを導き出すことができる人はいません。そしてそれは情報技術が進化した未来社会においてはより深刻な問題となってくるのでしょう。『攻殻機動隊』では人間のサイボーグ化が進み、より「人間らしさ」の、いってしまえば希薄な社会が描かれています。その中で人はどうやって自らのアイデンティティを保とうとするのか。その一つの答えが、あの少女の重い言葉のなかにあり、そしてそれは今現在でも私たちに強く響く回答となっている気がしました。

神山健二監督の思想性よりも社会問題を扱ったエンターテイメント色の強い攻殻シリーズの方が好きかな…とこのアニメシリーズに出会って以来ずっと思っていたのですが、最近は押井監督の思想を濃厚に投影した作品群も見直してみたいとの思いが出てきました。というか生きてる内に原作の『2』の劇場版を作って欲しいですね。恥ずかしながら、あれまだ一ミリも理解できていないので…