ダレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』

仕事帰りに観る映画ってまた特別なものがあるな…と感じました。以下ネタバレ注意。


ストーリーとしては、優等生的なバレエダンサーだった主人公が、彼女にぴったりの白鳥の役だけでなく大胆かつ淫らに王子を誘惑する黒鳥も同時に演じることを求められ、次第に狂気に陥っていくというもの。

とにかく最初からナタリーポートマンを中心にした画が続きます。今作では整ったというよりかは不安感が如実に表われたひきつった顔をしているため結構観続けるのが辛かったです。泣きそうな顔・追い詰められた顔・恐怖にかられた顔ばっかり。それが自意識の揺らぎと共にブルブル震えるものだから見づらいことこの上なくて正直前半は寝そうになってました。

それは一時間半程観た所でも変わることはなく、この映画つれーなー何かバレエの衣装着てる人とかそんなに美しいとも思わないし、ギスギスした女社会・嫉妬・狂気・自傷・性への恐れ・親の抑圧・幻覚とかマイナー要素ばっかりで何でこんなコアな映画がアカデミー賞に関わったのかわからず、表現が自分の興奮に結びつかずにいて退屈だった…

が、最後のステージのシーンでの「あーまた気持ち悪いの来たよ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち…えええええええええええええええ!?」となった瞬間の訳わかんない興奮たるや!完全に監督の手のひらで転がされてた様な気がします。エゴイズムは本作のテーマの一つである様ですが、自らを傷つけてまでも観客の喝采を浴びたい、むしろボロボロになった分だけその恍惚はより深いものとなると言ってしまってもいい。その一瞬のトランスフォームの快感を表すためのストーリーだったのでしょう。*1

振り返ってすごかったのは、主人公の狂気のピークが最大に達する所の、本番前日のカットでしょう。幾分ユーモラスではあるのですがそれにしても怖かった。ホラー映画を観に来た訳ではないのにビクゥ!ってなってしまいました。この監督の映画を初めて観ましたがホラー表現にも造詣の深い人なんでしょうかね。映画館のステレオの効果もあってか劇画チックながらも臨場感が半端では無いという不思議な体験をしました。

この映画での拍手喝采は、そのまま人間の承認欲求に結びつくものです。特にお金になる訳でもないのにどうしても人が渇望してしまう、そしてその承認を得るためなら時に非合理なことをガンガン行っていくという。

その場合「そのままの君でいいんだよ」という言葉を信じ現状維持のまま日常に生きることを肯定するか、あるいは今の自分を脱皮して更なる高みにあがることでより承認されたいという二通りに分けられるものだと思います。

この映画の場合、ナタリーポートマンが演じた主人公は明らかに後者でありますが、それが死という結果をもたらしながらもこれ以上人生の中で望むべくもない素晴らしい感覚を彼女に与えてしまった。そのことが根本的に悲劇でありながらもそれだけではない余韻をこの作品に与えています。

彼女が彼女を「殺した」ことは、幻覚によるものでありながらもある種必然性があるものです。何故なら新しい自分になる必要があったから。臆病で規律的だった過去の自分を排し、新しい自分になり変わること。このことが彼女が求めていたすべてであり、最後のシーンで惜しみなく与えられる。しかしその代わりに全てを失ってしまうという皮肉さは実社会を生きる我々にも何かを感じさせるものではないでしょうか。


まー僕ヘタレだからそういうの嫌ですけどね―


元祖自己破壊願望と言えばこの人。自らを滅ぼしかねないエネルギーを持ったアホです。カッコいい。

*1:ベッド上でオナニーを試みるシーンがまるで芋虫を思わせるものであり、成程こういう性の儀礼を通過して少女から大人の女になるというメタファーを示しているのだね、と思ったけど最後まで観たら特にそんなことはなかった