『ノルウェイの森』

トゥルース!ちょっと間隔が空いてしまいました。で、その間に何をやってたかというとまぁ四月からの新生活に向けた準備とかで忙しかったというのもありまして…思ったより卒業までの期間もそんなに暇では無いのかもしれませんね。

で、『ノルウェイの森』の映画がそこそこ評判良いというのでじゃあ見に行こうかい、でも俺高校の頃『海辺のカフカ』読んだけど、全く面白くなくて別の用途にしか使用して無かった*1という経験をして以来「村上春樹=俺の人生と無関係」という図式が成立している人間だから見に行く資格あるのかなーとためらってしまいました。しかし「じゃあ逆に非春樹読者から映画を見てみて、その後本を読んで感想を言えば貴重な視点からの意見を提供できるのではないか」と思い立ったわけで、そして映画を観、いま本を読み終わったところであります。

ノルウェイの森 オリジナル・サウンドトラック

ノルウェイの森 オリジナル・サウンドトラック

まず映画の方の感想をば。全体的に物語の抽象度が高過ぎて訳が分かりませんでした。その中でも一つだけ導き出すことができたこの映画の解釈としては、これは「不全」についての物語なのかな、と。高校の頃に仲良かった友人は訳も分からず自殺してしまう所とか、直子はキズキに抱かれたがっていたのにその時は濡れず、代わりにワタナベと始めてセックスした時には何故か濡れてしまうという自らの身体のコントロールできなさや、ハツミさんは永沢さんを愛しているにも関わらず永沢さんが一人の女性だけには飽き足らないため結果的に自殺してしまう所のうまくいかなさ、そしてワタナベと緑との関係で、緑がワタナベとくっつきたがってるときにワタナベはその気になれず、逆にワタナベが緑を抱きたがるときに緑はワタナベから離れてしまう…といったある種の不条理さが全体的に通底していたきがします。しかしいかんせん小津安二郎ライクな静止画が大部分を占めていて説明がほとんどありません。まるで「いちいち説明しなくてもこのシーンが全てを物語っているだろ気付けよバカ」と監督に言われてるように感じました。*2様々な映像が心に残る事無く過ぎ去っていき、「何だったんだあれは」としか考えられずに映画館を出ました。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

で、本ね。映画があの調子だったんで小説の方も読者置いてけぼり当たり前の何ちゃって文学なのかなと思っていたらそうでもなく、ちゃんと芯の通った物語になっていて読者のことをそれなり考えてくれているなという印象を受けました。まぁ文学プロパーというよりかは人気作家な訳だから当たり前っちゃあ当たり前なんですが。

一番印象に残ったのは、まだこちらの方が説明的な分登場人物が何故そのような行動に出るのか比較的分かりやすかった所です。具体的には緑が突飛な行動をするのも、それは親から愛情を受けないで育ったためであって、だから本当の愛とはあなたが買ってきたケーキを投げ捨てることなのよ、とか言い出したんだなーと幾分納得が出来るようにはなってました。あとはレイコさんの過去かな。あれも映画では省かれてましたが結構重要なとこなんじゃないでしょうか?僕は割と響きましたが。その他映画版に対して「ここ削っちゃダメだろ馬鹿…!」と思い当たる小説の部分は何度かありました。尺の問題?じゃああのキズキの自殺シーンの意味不明なまでの長さは何だったんだよ…

この本を読む前にさんざネットで村上春樹を揶揄する書き込みを見ていたので、あまり期待はせずにこの本も自分のことしか考えてない主人公の話なんだろうなーと思っていたら意外と他者との連関が盛り込まれていて、思ったより有機性があった気がします。この事実は個人的に衝撃的でした。つまり「やれやれ」文体がここではそれなりに意味を持って使用されており、深夜アニメ等にありがちな、ニヒリズムに特化しつつうまいこと女の子を救って俺カッコいいそして皆ハッピー、みたいな主人公とは一線を画しており誠実さを感じさせてくれます。批判されるような「やれやれ」文体の使われ方をするようになったのは村上春樹というよりもそのフォロワーが「深いことをあまり考えないようにしている」という人物像をいい様に使った結果このようなシフトが起こったのであり、作者自身にそこまで罪は無いような気がしました。*3

また、読んでる最中にたまたまこのまとめを目にしたのですが
RE:1995年についての考察 - Togetter
阪神大震災地下鉄サリン事件が起こった年に『ノルウェイの森』を読んで影響を受けた、というツイートがとても印象に残りました。というのもこの二つの事件はそれまで築き上げてきた信頼の喪失、そしてその後の迷走を暗示しているものであり、そんな時代情勢の中で読んだこの本が面白かった、という話は興味深い、そして意味づけを試みたくなる示唆だと思います。要するに私たちが依拠すべき社会通念、あるいは常識的道徳は実は脆いものであり、それが露見して社会との信頼関係が破綻してしまったら私たちはもう何とも言えない不安感の中どこということも無くさまよい続けることしかできない。そしてその感覚をこの小説は訳のわからなさで持って明晰に語っているのだ、とすれば一応筋は通っている気がします。*4

自分としてはこのような「大きな物語の喪失」といったポストモダン的な話には共感を覚える一方で「でもそんな『物語の喪失』といった物語を前提にしてませんかい」と眉唾な考えを持ってしまうたちです。あと僕の世代よりちょい上の時に流行ったバンドにSyrup16gというバンドがおりましてですね。

このバンドの思想がまあざっくりいうと「世間は絶望とかばっかりだから、ダメ人間でも遠回りしてそれなりの幸せ見つけようぜ」というもので、そういうことをボーカルの人が当時のロッキンオンジャパン*5で語ったりしててまあ僕は熱心という程ではない*6ですが意外と大きな影響受けてると思ってます。気が付いたらそう考えてる事が多い。

何が言いたいかというと、つまりもう「善も悪もこの世には存在しない」といったポストモダン的言説ももう周回遅れだよね、ということです。社会は上述のような事件をそれなりに受け入れていて、人々の意識全体としても何となしの緩い快楽主義に向かっていて、この世界はよくわからないものだけれどもそれでもそれなりに頑張っていこう、というマインドにあると思うんですよ。

そのことを踏まえて再度この映画のことを考えた場合、果たしてこのポストモダンど真ん中の映画が今の社会に受け入れられるのか、という疑問に対してはNOという他無いような気がします。映画を観終わった時一つ思ったのが、これはもう日本人向けではではなくて、海外市場を視野に入れた作品なのかもしれない、ということでした。戦後のアメリカ人が川端康成の『雪国』に不思議の国ジャパンを夢想してノーベル文学賞を与えたように、また同じ様に虚無をテーマにした恋愛映画である『ジョゼと虎と魚たち』がアジアでバカ受けしたように、この映画も外国人が「日本独特の美」とか言って特別な意味を見出すかもしれない。日本人の僕には理解できないけど。つまりその様な現象をはなから監督は狙っており、日本でこの映画がどう見られるのかについては無頓着なのではないか、という考えを持ちました。しかし9.11以降長い時間が経ち、またアメリカを再度復興させようとするオバマ政権ももう成熟期を過ぎたと言って良い今、このやたらとぼやけた印象ばかり与える映画が受け入れられるような余地は無いのではないでしょうか。

その他、その後のワタナベの視点が無いことや、直子の泣いたシーンのズレ(映画→ノルウェイの森を聴いて泣く、小説→濡れなかったことを告白して泣く)、ジョニーグリーンウッドの音楽等書きたい点はあったんですが、それはまた今度。
それではこの辺で。

この評もツッコミ所満載な気はしてます。

*1:実の母とか、姉とかのとのシーン

*2:ちなみによく宣伝されている映像美ですが、まぁこんなもんかなとしか思えなかった

*3:「他者危害の原則」が思想史的にシフトしていったのに似ている

*4:この小説自体の発表は1987年

*5:ここ重要

*6:一枚CDをツタヤで借りた程度