手塚治虫『アドルフに告ぐ』

・あなたの砕け散った信念も、いつかは誰かに受け継がれる。

アドルフに告ぐ (1) (文春文庫)

アドルフに告ぐ (1) (文春文庫)

もうこの作品以上の漫画には出会えないんじゃないか!?と思うほど衝撃を受けました。どうやったらこのレベルの完成度の物語を書けるようになるのか。今みたいに決まりきったプロットがあるわけでもなかった漫画の世界に、他のメディアに引けを取らない重厚なストーリーを展開することを可能にした才能にただただ感服するばかりです。

舞台は第二次世界大戦時前後の日本とドイツ。記者の峠草平は、ドイツにて弟の電話を受け会いに行くも弟は既に死体となっていた。その後弟の知った秘密を巡って現地の警察に追われる身となる。一方日本では、外交官の子アドルフ・カウフマンとユダヤ人のアドルフ・カミルの二人の少年が、ナチスユダヤ迫害をよそに友情を深めつつあった。そして日々ドイツ帝国の支配を強大にしていくアドルフ・ヒトラー。その三人のアドルフと周辺の人々は戦争下で過酷かつ数奇な運命に立ち向かうこととなる…

この漫画で描かれているのは、過酷な社会情勢の下で信念をずたずたにされていく人間たちの悲劇です。カウフマンは自分の信じるナチスのために自分の隠れた信念及びナチス人という他人の人生を犠牲にしながら任務を遂行していく。しかし最終的には、ずっと欲しがっていた機密文書を手に入れた瞬間にナチスドイツの敗北を伝えられ、自分の人生をかけた労苦が全て無駄だったと知る。また、カミルはユダヤ人という人種を乗り越えるためにあらゆる努力を惜しまず、その結果日本の街の人々から信頼を得ていくものの、親友に婚約者を犯され、自分の父親を殺したのがかつての親友だったと知り、その親友を自らの手で殺すことになる。かつて二人は人種の壁を越え分かり合った親友であったのに。そして生涯を通じてひたすらに権力を求めた独裁者であるヒトラーは、強大な国家を作ることに成功しながらも戦争に敗北し、今や悪党の代名詞ともなっている。彼らは皆、かつては情熱をもって人生を生きようとした人間たちでしたが、社会によって信念を根底から変化させられることを余儀なくされて過酷な運命に対峙せざるをえなくなる。

この漫画の背景となっている第二次世界大戦当時は、それはそれは大変な世界情勢だったと容易に推測されます。しかし、社会の不条理性が人間の尊厳を踏みにじっていく状況は、会社組織による厳しい経済戦争が行われている現代においても当てはまるものではないでしょうか。冷酷な上司の下で苦労する部下がいたり、良心的な人が低い社会的評価をつけられていたり。「みんなが幸せ」的な社会を想像してもそれはただ狂気でしかないと感じてしまうあたり、いつの時代だろうと人間の本質なんか簡単には変わらないものです。

人は、単純な動機からの自分の行動が思いもよらなかった悪い結果に帰結するのを多く経験してしまうと、これから先自分のすること全てが悪に帰結していくかのような感覚に囚われてしまうものです。一切合財に根源悪が潜んでいるという浄土真宗が現在においても一定の支持を得ているあたり、これは今でも説得力のある考えのように思われます。ヒトラーは徐々に精神が不安定になっていきますが、同じようにそれまで強く信じていた価値観を完全否定されたり、長年の労苦をふいにされると人間は大なり小なり精神を揺さぶられるものです。そんな残酷な世界で我々はどう生きていくのか、という問題は歴史を通じて誰の心にも生じるものであると言えるでしょう。

ラスト、晩年の峠草平は、アドルフ達のその後を追って中東まで向かい、夫であるカミルを亡くしたエリザと出会う。老年の彼がそうまでする理由は、ひとえに彼らの物語を紡ぐためだ、と言います。三人のアドルノに起こった悲劇を防ぐことはできなかったし、現在の自分がどうすることでできない。ただ、それを語り継ぐために今自分は行動を起こしているといいます。それはどういうことなのか。

この点は、同じくナチスドイツを題材とした漫画『石の花』と鮮やかな対比を成しています。『石の花』での「石に花とみる」というメッセージはつまり、自分の信念を根底から否定するかのような社会に対して、自らの意識を改革することで対抗していけという、自意識的なものです。それに対して、この作品の最期は「この悲劇を誰かに伝える」というものです。このメッセージを受け取る誰かのために動くということ、社会を信じるということ。自らの後続あるいは死後の世界のために何かを残すという行為自体が、外の世界や言葉が自分の意識を離れて存在することを前提にしています。歴史は突風の如く吹きつけ我々を否応なしに付き動かしていきますが、その欠片を残すことはできる。静かに、しかし信念をもって外の世界に向かって伝えるという姿勢が胸を打ちます。

かつて自らを完全に叩き壊した社会に対し、それでもなお自らの言葉で問いかける。メッセージを聞く人がいるかも、いたとしてもその心に響くかどうかはわからない。それは一種の祈りのようなものだ。