結局一睡もできないまま八時頃ディベートの準備をしに大学の食堂へ。大体の流れをつかんだ後家に帰り、図書館へ行って最後の調査をした後ゼミ。結論から言うと全くついていけなかった。何で皆あんなにできるんだろう。そして俺は何に躓いているんだ?
四五限は出席するも寝る。そして校内で少し寝て経済学のセミナー。ミクロ経済学は相変わらずわからないが、それでもなんとなく何を目的としているかがわかってきた。言わんとしていることは簡単なことなのに難しい数式使いまくってるような気がする。終わった後バイト先に酒を買いに行って帰宅。この後しばらくはセミナーが無いことを記念して一人飲み。エビスザホップうまー。

和辻の倫理学説によれば、人間は今いる風土の影響を受けて生きる。その点で、倫理は相対的なものとなるが、一旦一つの風土(日本)での倫理を打ち立てた後その他の風土と比べることで共通する何かを見つけようとするわけだ。

じゃあ全ての人間にとって絶対的な規範ってあるだろうか。自らの自殺の禁止とかか?



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いつ見ても円谷幸吉の遺書は心にくる。

決して技巧的な文ではない。自分の心情を伝えるためのちゃんとした手順を踏む、ということはどう見ても出来ていない。でもそんなの当たり前だ。なぜなら円谷は追い込まれていたから。そしてその錯乱した頭の中でまともな文が書けるわけがないことは嫌でもわかる。しかしその不条理性に僕はこの文の価値を感じる。

円谷は最後に自分を生かしてくれた感謝を直接的に人間の生をなしている食にすがった。遺書に書くにはアホらし過ぎるようにみえる事項。しかしそれは氏の意志(と思われるもの)をその言葉以上に伝えている。

自分の気持ちを言葉で表現しようとしてもうまくいかない、でもその必死さは伝わってくる。表現できないという表現。レトリック以外にも可能性はある。

そういうことがあるから生きていけるんだと思う。自分がどうしようもない感情を持ってしまい、そしてそれが言葉では伝わりそうもないと思ってしまった時に人は死にたくなるんだろう。しかし「孤独」が共有される瞬間―そんな矛盾した奇跡が起こる可能性がこの世界にはまだ存在している。それは希望と呼ぶことが出来ないだろうか?

円谷を始めとするこの動画の多くの人達は最後に成功したといえる。しかしこの人たちにその奇跡が起こった瞬間が死ぬ時だった、むしろ死が要件であったということは皮肉だし、とても悲しいことだ。しかし彼らが遺書にのせた思いは十分届くべき人に届いている。


しかしそれを感じてしまった自分はどう生きるべきなのか?その答えは見つかっていない。